芳幾・芳年 国芳門下の2大ライバル:2 /三菱一号館美術館
(承前)
芳幾・芳年が14図ずつ共作した《英名二十八衆句》は、歌舞伎に登場する著名な殺人者を1人ずつ取り上げた「血みどろ絵」「無残絵」のシリーズ。
展示作品はグロさひかえめ、まだマイルドなチョイスで、個人的には安堵した。
インパクト重視でグロ・シーンを採用すれば、全体の印象がそちらにばかり引っ張られてしまいそうだ。難しい加減だったろう。
下図は兄弟子・芳幾の作。涼し気な画面である。急流に逆らってすい~っと潜航する男の口許には……
芳年からは、助六を描いた一枚。刺客を返り討ちにし、見得を切るその瞬間である。
凶行を直截的に描かず、表情や仕草、小道具などから「匂わせる」あたりは、じつに芳年らしいといえようか。
師弟がともに得意とした「武者絵」の作例も、多々並んでいた。
《芳年武者旡類(むしゃぶるい)》はとりわけ知られたシリーズ。全点が同時に公開されるのは、意外にも本邦初だとか。
上に挙げた《英名二十八衆句 高倉屋助七》と下の《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》の制作期には、じつに16年ものひらきがある。
この間に、神経の消耗から芳年はいったん筆を置き、また復活を果たしている。「大蘇(たいそ)芳年」と名乗った時期の作が、後者である。
江戸の香りが払拭された、近代仕様の浮世絵とでもいえようか。「蘇った」というか、もはや「生まれ変わった」感すらある。芳年は明治に入っても、浮世絵師として進化を遂げつづけた。
——浮世絵には、「アート」と「メディア」というふたつの側面がある。
江戸や明治の初めに美術の概念はまだないが、美しい、あるいは心躍る対象として浮世絵を眼差すことは、当然あっただろう。それは、もっぱらアートとして浮世絵を観るわれわれの視線とほとんど変わりがない。
芳年が「アート」を追求した絵師とすれば、芳幾は「メディア」としての方向性に舵を切った絵師だった。国芳の評のとおり「器用」だったからこそ、どんな需要にも応えられたのだろう。
明治5年、芳幾は條野採菊(じょうのさいぎく)らとともに「東京日々新聞」を創刊。ゴシップなどのいわゆる三面記事を一枚絵に仕立てた「錦絵新聞」で人気を博した。
《東京日々新聞111号》は、火事場で奮闘する相撲取りのたくましい姿を描く。当時ようやく立ちはじめたばかりの貴重な電信柱を、相撲取りが死守している。
《東京日々新聞40号》は、九代目市川團十郎の名演に感銘を受けた西洋人が「弁慶お上手写真頂戴」(原文ママ)とブロマイドを所望、その御礼に葉巻を進呈したというほっこりエピソード。
どちらも、実際の出来事を絵画化したものである。
「血みどろ絵」とは別の意味でぎょっとしてしまうのが、写真に範をとった《俳優写真鏡》のシリーズ。
※展示品は別の所蔵先のもので、もっと保存状態がよかった。
現代人の目からすると、かなり珍妙なものと映る。こちらを笑かしにきているとすら思えるが、人気役者の「真」を「写」そうとしたらこうなったというだけで、いたって真面目に描かれている。
当時はこれが最先端の実験的な試みであり、「真」を「写」そうという姿勢こそ、まさしくメディアの本懐でもあったのだ。
芳幾には他にも文明開化の風物を描いた開化絵、師・国芳と同じく猫好きだったことが偲ばれる猫の絵、子ども向けのおもちゃ絵、雑誌の挿絵など、じつにバラエティに富んだ作例がある。
本展では、それぞれの作品を紹介。あくまで従来の浮世絵の範疇で高みを目指す芳年との作家性の違いを、はっきりと認識することができた。
——本展のラストは、そんな芳年最後の傑作シリーズ《月百姿》。どの画面でも余白が多くとられ、整理された構成となっている。格調漂う画境だ。
本展のポスターにも採用されている《千代能(ちよの)》は、鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の娘。水汲み桶の底が突然抜けてしまったことで世の無常を悟り、出家したというシーンを描いている。
月明りの下、夜の景であるから背景は墨一色……というばかりでもない。
柿の実をご覧いただきたい。陰になりながらも、ほのかに柿色を帯びている。
また、右上の色紙形には空摺が捺されている。
これでもかと手のかけられた「極め付き」のこのシリーズが、浮世絵が咲かせた最後の華であった。(つづく)
※東京日々新聞は毎日新聞の前身のひとつで、本展では毎日新聞社所蔵の錦絵新聞が多数出ていた。共同設立者の條野採菊は鏑木清方の父、設立翌年に入社した名物記者・岸田吟香は岸田劉生の父である(清方は、芳年の孫弟子にあたる)。