芳幾・芳年 国芳門下の2大ライバル:1 /三菱一号館美術館
幕末期の浮世絵の巨星・歌川国芳。
「奇想の画家」の一角にも挙げられた国芳の絵は現代においても人気が高く、毎年どこかしらで展示が催されるほど。
国芳人気の余波を受けた面もあってか、弟子の月岡芳年への認知度もにわかに高まっている。
以前は残虐非道な「血みどろ絵」のイメージが先行していたが、そればかりではないすぐれた力量にスポットが当たる機会が増えたことも、芳年の存在が受け入れられる背景にはあるものと思われる。
国芳一門には名前が残るだけで80人以上もの弟子がおり、その画系からは河鍋暁斎、鏑木清方、伊東深水、川瀬巴水らが出ている。
このうち河鍋暁斎は直弟子にあたるが、在籍していた期間は長くない。
国芳の直弟子の中の直弟子として、江戸から明治へと移りゆく一門を支えたツートップこそが、本展の主役・月岡芳年と落合芳幾(よしいく)である。
それにしても、芳年はともかく、芳幾とはすっかり埋もれてしまった感のある名前である。
展覧会名は「芳幾・芳年」となっているが、知名度の高さからいえば、「芳年・芳幾」となってもおかしくなかっただろう。
芳幾は1833年生まれで、国芳に入門したのは17、8歳時。対して芳年は1839年生まれで、12歳時に入門している。
すなわち、年齢こそ離れていても、入門はかなり近い時期。ふたりは、若き日から鎬を削ったライバルどうしなのである。
師・国芳は、芳幾にあって芳年にないものを「器用さ」、芳年にあって芳幾にないものを「覇気」と評した。このふたりの性質の差異は、近代に入ってからの身の振り方にも現れる。
引き続き浮世絵版画の制作に邁進した芳年、新聞報道や雑誌の挿絵、さらには肉筆画にも力を注いだ芳幾。両者の活動範囲・歩んでいく道は、くっきりと分かれていったのだった。
会場では、国芳得意の三枚続10点+二枚続1点につづいて、ふたりが競作、ときに共作をした浮世絵版画のシリーズものをずらりとならべ、その後の新聞錦絵、開化絵、肉筆画といった多様な仕事ぶりまでを含めて紹介されていた。
大ボリュームの本展から感じられたことを、まとめてみるとしたい。(つづく)
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