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ゴッホと静物画 ―伝統から革新へ:4/SOMPO美術館

承前

 《ひまわり》(1888年11月~12月  SOMPO美術館)は、まさしく館の顔。移転前は展示内容に関わらず、常設でいつでも観られる状態になっていた。
 そのかわり、厚い厚いガラスで厳重に覆われていたものだが、今回は露出展示。環境活動家による暴挙やら、返還訴訟やらがあるなか、こうして間近で拝見ができるのは、ほんとうにありがたい。
 色彩と筆触が、奔流となって迫ってくる。じっと観ていると、酔っ払ってしまいそうなほどだった。


 約1年半後に描かれた《アイリス》(1890年5月  ファン・ゴッホ美術館)。
 黄色い壁とテーブル、そこに置かれた花瓶、活けられた1種類・多量の花々といった点は、いずれも《ひまわり》に共通する。サイズも近い。
 みるからに関連性が強い2作が隣合うさまは、本展のハイライトといえよう。

 《アイリス》の黄色は、画像や図版よりも黄みが強くなく、穏やかな印象。それだけに、青や緑、さらに輪郭線の黒が際立ってみえた。とくに、細かく複雑に塗り分けられた花びらには、ひまわりの明快さとはまた異なる魅力があった。
 花瓶は中心を避けて、右寄りに置かれている。花はこんもりと、うず高い。かと思えば途中で折れ、倒れている花もある。
 こういった要素が、不安定さを感じさせることなく、ひとつの画面に盛り込まれている。
 本展には出ていないものの、ファン・ゴッホ美術館には鉛筆デッサンが残されている。網をかけたような大胆なモデリングによって、安定した構図にたどり着いたことが、ここからわかる。


 本展ではゴッホと近い時代の、おなじみの作家たちによる静物画も充実していた。
 ポール・セザンヌ《りんごとナプキン》(1879~80年)は、SOMPO美術館の所蔵作品。常設展示では、《ひまわり》の隣によく並んでいたものだ。
 すなわち、この絵も厚いガラス板を介してばかり観ていたのだけれど、今回はガラスなしでの拝見が叶った。

  「りんごとナプキン」。ほんとうに、そうとしかいえないシンプルな構成である。もはや、モノとしての意味や機能はとうに超えて、純粋な物体・かたちとしてのおもしろさだけがセザンヌの眼中にはある。
 りんごの実はそれぞれに、かたちや大きさ、色合いが少しずつ異なっている。置き方しだいで画面づくりの選択肢は無限にできていくし、白いナプキンをテーブルに放れば、人間が操りきれない起伏やしわが生じる。相当試して、この構図に落ち着いたのではと思われる。
 ひと筆ひと筆が一定のリズムで、多くは一定の角度で置かれていく。淡々としているようで、濃淡やムラがある。それが情緒やあたたかみを生んで、けっして単調や冷徹には陥らないのが、この画家のすごいところだと思う。

 ポール・ゴーギャン《花束》(1897年  マルモッタン・モネ美術館)。73✕93センチの大きな作である。

 中央に散らばる、赤い花びら。鮮血にも似た色合いで、強烈に目に飛び込んでくる。それに呼応するように、他の花々も、ある種の毒々しさをもって競い咲く。妖しさが横溢する画面だ。
  「花の静物画」というものは、「わぁ!きれい!」となんの疑いもなく感嘆できるケースが大半な気がしている。つまり、多くの花は万人に「わかりやすい」美しさをもつはずだけれど、この絵・この花々の美しさは、ちょっと複雑だと思う。
 それでも、怖いもの見たさで近づきたくなる……そんな、蠱惑的な絵だ。
 ところで、この花瓶。重心の低さ、でべそのような丸い出っ張りの連続(擂座〈るいざ〉)、脚つきのようにみえる点、さらにこの釉薬の感じからすると、中国・鈞窯の水盤ではなかろうか。非常によく似ていると思う。


 ——こうして、しばしば花器のほうに脱線しつつ、ゴッホをとりまく「花の静物画」の数々を拝見し終えた。
 平日を狙いすましての訪問だったものの、そこはやはりゴッホ。土日はとてもじゃないが厳しいだろうな……と思わせるほどの盛況ぶりであった。
 それでも、上野の展覧会場では慣れっこの押し合いへし合いはなく、無理なく作品に向き合うことができた。
 ほとんどの作品は撮影が可能。グッズもユニークで豊富だ。
 西新宿で、ゴッホのお花見&お花摘み。この冬のおすすめである。


白椿。小石川植物園にて



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