生誕150年 池上秀畝 高精細画人:2 /練馬区立美術館
(承前)
2階の展示室。極彩色のスケールの大きな作が多数を占めるなか、淡彩の《岐蘇川(きそがわ)図巻》(1921年 長野県立美術館)が、ひときわ異彩を放っていた。
江戸時代の紀行文に触発されて、岐阜の八百津から愛知の犬山まで木曽川をみずから下った体験をもとにしている。バイタリティあふれるよいエピソードであるが、それを縦63.3センチの紙、「天」「地」「人」の3巻分にわたって描きつらねてしまうのだから、これまたとんでもないバイタリティだ。
画巻を見守るように壁際を占めていたのが、「極彩色のスケールの大きな作」の典型といえる金屏風《盛夏》(下図。1933年 水野美術館)と《歳寒三友》(1926年 水野美術館)。同寸法で、目黒雅叙園では一具として扱われていたらしい。
これだけデカく、キンキラでカラフルなのに、なぜかどぎつさをあまり感じさせないのは、画品の高さゆえだろう。
《盛夏》で目立ったのは、じつは、植物よりも鳥の描写であった。妙にリアルで、それこそ「高精細」。周囲から浮いてみえるほどだったのだ。
秀畝は「鳥の画家」と呼ばれるほど、鳥の描写を得意とした。
展示室では、鳥を描いたスケッチを、作品の合間に多数展示。どれも、羽毛の1本1本までが表され、やわらかさや重さすら感じさせる迫真性である。
メモからは、動物園や博物館に通って熱心に写生に励んでいたさまがうかがえる。珍しいヒクイドリのスケッチは、浅草寺で観たものという。
「鳥の画家」の真骨頂を示す “超高精細バード” が《桃に青鸞図》(1928年 オーストラリア大使館)。本展のポスターにもなっている看板作品だ。
板戸の両面をみせるため、島状のスペースでの露出展示となっていたが、間近で拝見して、息を呑むばかり。こんな作品が、人知れず秘蔵されてきたなんて……
三田綱町のオーストラリア大使館は、旧蜂須賀侯爵邸の地所を引き継いでおり、本作も、もとは蜂須賀邸を飾った建具。
施主は、蜂須賀正氏(まさうじ)。蜂須賀小六の直系の子孫であり、ドードーの研究で知られた生物学者である。
正氏は、伝説上の鳥・鳳凰の正体をカンムリセイランと断じる説を発表している。秀畝の《桃に青鸞図》も、おそらくはこの点を踏まえた、施主肝煎りの画題であったと予想されている。興味深いものである。
以降も、鳥を描いた力作が続く。
この画家はほんとうに、鳥がすきでたまらなかったらしい。でなければ、こんなに数を描かないし、ここまで「高精細」に描きこまないだろう。
終盤に登場した《竹林に鷺図》(1913年 個人蔵)。靄(もや)がかった山中に、厳かな空気が漂う。
ここではサギの描きこみは抑制され、雅味と詩情とがにじむ。ミントグリーンともいうべき明るい緑色がさわやか。
本作は、なんと畳の上で、ガラスケースなしで鑑賞することができた。
真新しいイグサの色と香りが、ミントグリーンと呼応。10畳を右往左往。本来的な環境での鑑賞を擬似体験できる、心にくい演出であった。
秀畝に関しては、郷里・長野県内に多くの作品や資料が残されている。
驚いたのは、和綴じ本140部からなる『匣書手扣(はこがきてびかえ)』(1917~44年 信州高遠美術館)。秀畝が自作の掛軸を記録した手控え帳である。各部におよそ100点前後ずつ、どんな作品が誰に譲渡されたかが、簡単な絵入りで記されている。
『匣書手扣』には展覧会出品作、掛軸以外の屏風などの作品は載っていないが、屏風の下絵をまとめた《画巻(屏風下図)》(長野県立美術館)が本展には出品。こちらも、たいへん貴重。
このように、いくらでも研究を深化できそうな貴重な資料が伝わっているのはすばらしいことであるし、今後の可能性を感じさせるものだ。
本展の出品作も、次の巡回先である長野県立美術館をはじめ、長野県内から借用した作品が多い(水野美術館も長野市)。
それだけでなく、練馬開催の本展と連動するいまの時期に合わせて、秀畝の故郷・伊那地方で同時多発的に回顧展が開催されてもいるのだ。伊那市立高遠町歴史博物館、信州高遠美術館、伊那市創造館、長野県伊那文化会館が、それぞれに企画。
逆にいえば、それほど多くの作品が、いまも当地には残っているのである。
生誕150年のメモリアルイヤーを機に研究が進展し、秀畝が「旧派」のレッテルを突き破る日も近いか。