見出し画像

第10回 日本の水石展:2 /東京都美術館

承前

 学生時代に、地球科学を専攻する友人がいた。
 道ばたで石塊や露頭を見つけると、彼は即座にそれがどんな種類の石で、どういった過程を経ていまの姿になっているか話してくれたものである。
 彼のような理系の目をもつ人にとっても、水石趣味は楽しかろう。
 わたしのような文系人間には、散文的な感覚を見込んで、見立てや命銘の役を割り当てておけばよい。
 水石とは、なかなかに懐が深い。

 石好き、弄石趣味というと、とかく変人扱い、好事家の病膏肓に入るといった先入観がつきまとうが、ここに集まる石はたしかに魅力的で、そして非常に洗練されている。ファインアート的な意味でも、間口は非常に広いと思う。
 会場には、なんらかの人物や器物にそっくりなことを売りにする珍奇な石がもっと並んでいるかなと思っていたが、数点しかなかった。
 たとえば白衣観音立像にそっくりな石や観瀑をする李白に瓜二つの石はあったが、ほんとうにそれくらい。これらとて「珍」ではあっても、「奇」を感じさせるものではなかった。
 大半は、山水になぞらえた水石であった。誰にでもなじみがある、自然の風景である。
 思えば、奇異なかたちをいたずらに期待するのも、前述の先入観に依るところが大きいではないか。反省。

 ※水石の種別については、こちらのページにまとめられている。

 とはいえ、おとなしいばかりが自然ではない。目を丸くしてしまうような、驚きの造形をみせる石もたくさんあった。
 そういった石に接しているうちに、ある考えが浮かんできた。

 ——前日に、サントリー美術館で「没後190年 木米」を観た。
 日本の文人として最も敬愛されるひとりである陶工・木米は、手すさびに描いた山水画もまた、最高峰の評価を受けている。
 渇筆・潤筆自在の筆さばきによって描きだされる巌(いわお)の大胆不敵な形状は、ときに奇異と映るほど。《化物山水》と呼ばれる作も、実際にある(個人蔵。3月からの後期展示に登場)。

 木米の山水を観ながら、岩山のデフォルメぶりにクスッとしては、「いやいやいや」などとマスクの奥でささやいていたのであったが……わたしが知らないだけで、このような岩石が実在していたって、けっしておかしくはないのではないか。世界は、わたしが認識できているよりもずっと、広いのだから……
 水石の、コンパクトに切り取られた絶景の数々を目の当たりにして、そんなことが感じられた。

 水石は、煎茶趣味の床飾りとして、たいへん好まれてきた。
 展示には、木米と深く親交を結んだ頼山陽遺愛の石や、木米の親友である田能村竹田の養子・田能村直入遺愛の石も出ていたのだ(竹田から受け継いだ石かもしれない)。
 木米のまわりには名石・珍石が転がっていたであろうし、少なくとも、頻繁に目にし、賞翫する機会に恵まれていたであろう。
 そうなるとますます、木米がおおげさに描いていたとはいいきれないではないか。(つづく)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?