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速水御舟の《洛北修学院村》を訪ねて

 曼殊院で「黄不動」の里帰り特別公開を拝観し終えてから、門前のこのあたりに立ち止まって「はて……?」と考えこんだ。
  「右に行こうか、それとも左か」

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 右手、すなわち南へ行けば詩仙堂に至り、叡電の1駅手前・一乗寺駅から乗ることになる。以前この界隈にやって来たときと同じルートだ。
 北の方角へ行けば、修学院離宮。こちらの場合、先ほど降りた修学院駅からの乗車となる。
 新幹線の中では「そのときの気分で決めよう」と都合よく結論を先延ばしにしていたが、いざ「そのとき」になっても、まだ迷っていた。
 南下すると拝見できるはずの円山応挙《雨竹風竹図屏風》に後ろ髪を引かれつつ、結局、北に針路をとることにした。
 速水御舟が一時期暮らし、あの《洛北修学院村》(大正7年  滋賀県立美術館)を描いた修学院村のあたりを、一度ゆっくり歩いてみたかったのである。
 きょうは、応挙より御舟。そんな気分だった。


 曼殊院から5分とかからず、小川につきあたった。
 向こう岸は修学院離宮の敷地。その一部をなす門跡寺院・林丘寺の雲母庵(きららあん)に、御舟は寓居していた。

尼寺・林丘寺門跡。非公開で、固く門を閉ざしている(対岸から撮影)

 雲母庵の正確な位置はわからないが、その名称は雲母坂(きららざか)に由来するのであろうから、この周辺には違いないだろう。写真の地点から数分だけ上流へ行って橋を渡れば、雲母坂の登り口に着いてしまう。
 雲母坂は、比叡山と京の都を結ぶ急坂。若き日に比叡山で修行した法然や親鸞も、比叡山の屈強な僧兵たちも、この坂を往復した。現在も道として健在で、登山ルートの入り口になっている。

いずれ登ってみたい

 御舟が林丘寺や雲母坂の周辺を描いた作品が、いくつか伝わっている。

 兄弟子・今村紫紅を亡くした御舟の傷心を癒やし、悲壮な決意のもと芸術へ邁進せしめた「洛北修学院村」とは、まさにこのあたりなのだ……歩いているうちに、じわじわと実感が湧いてきた。
 登山客とランナーを除き、人っこひとりいないのをいいことに、鼻歌まじりのそぞろ歩き。絵のなかを散歩しているような心持ちであった。


  さて、《洛北修学院村》に描かれている場所は、いったいどのあたりなのだろう?
 先ほど触れた小川が特徴的かと思われるが、画中のどこを探しても見当たらない。もちろん、修学院離宮も林丘寺も描かれていない。
 作品名には具体的な地名が冠されているけれど、御舟は、特定の地名がもつイメージに過度に引っ張られてしまうことを避けたかったのかもしれない。
 じっさい、この絵には、もっと一般化された山村のすがた、村人のささやかな暮らしのありようが描かれているのである。アノニマスな日本の村であればこそ、たとえ行ったことがなくとも、共感や郷愁を誘える。

このような耕作の風景にも出合えた。まさに、絵のなかに入りこんだ感じ

 この地が修学院村たることを、画中において如実に示すものはただひとつ……画面の最上部、比叡山を含んだ遠景の山並みである。
 林丘寺を右手に、修学院離宮を中景として、描かれた山の形状に近い角度から撮ってみた。

手前は川。右の森が林丘寺
こちらのほうが絵には近いか

 ……当たらずとも遠からずといったところだが、修学院離宮の中に入れば、より近い図にはなりそうだ。

 いずれにしても、《洛北修学院村》は絵図や写真ではなく絵画作品であるから、このあたりの実景がそのままそっくり絵になっているわけではない。
 場所ごとに描かれた複数の部分的なスケッチ(滋賀県立美術館蔵)をもとに、いわばモンタージュに似た作業がおこなわれ、《洛北修学院村》という絵ができている。

 現地にいるには違いないのに、具体的な場所がわからない——それはもどかしくもあったけども、「わからない安心感」のようなものも、たしかにあったのだった。
 気ままなフィールドワークは、いつも楽しい。


 ※《洛北修学院村》とこの界隈について書いた回。



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