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国宝「黄不動明王像」 里帰り特別公開 /京都・曼殊院門跡

  「曼殊院(まんしゅいん)といえば黄不動」というくらいに著名な尊像であるが、そういえば、これまで一度も拝観したことがなかった。
 京都・洛北の曼殊院には、うかがったことがある。
 朝一番での修学院離宮から曼殊院、応挙《雨竹風竹図屏風》がある圓光寺、石川丈山の詩仙堂、ふしぎな野仏庵、宮本武蔵が決斗した一乗寺下り松、独立系書店のカリスマ・恵文社一乗寺店というコースだった。
 ここまで巡って、まだお昼過ぎ。午後も夜中まであちこち歩きまわったはずだ。旅先のわたしは、武蔵もびっくりの剣客……もとい健脚である。 

市街地からだんだん外れていき、田んぼや畑がめずらしくなくなる。左の尖った山は比叡山

 このとき訪ねた曼殊院は「宸殿(しんでん)」という重要な建物を欠いており、いままさに、その再建計画を進めております、ぜひご寄付をお願いします……とのことだった。
 曼殊院の正式名称は「曼殊院門跡(もんぜき)」。皇室の子女が入山する格の高い寺院を「門跡寺院」といい、門跡寺院に特有の堂宇が件の宸殿である。宸殿は天皇や皇族の位牌を納め、主要な行事を執り行う、まさに門跡寺院の中枢となる施設だ。
 そんな宸殿が、あろうことか、曼殊院には長らく存在していなかった。
 明治5年まであった宸殿は、新しくつくられる病院(のちの京都府立医科大付属病院)の施設に転用するため「明治政府に上納」されてしまったのだ。
 皇室と関わりの深い京都の名刹ですら、かような苦境に立たされた……仏教受難の時代を象徴するような出来事といえよう。

 このたび開かれた国宝「黄不動」の「里帰り特別公開」は、その宸殿の新築が成り、150年ぶりに曼殊院に宸殿が復興されたことを記念するものである。「黄不動」は、ふだんは京都国立博物館に寄託されているので「里帰り」。
 できたてほやほやの宸殿の一室に、まだ強い木材の香りに包まれて、「黄不動」は直立していた。

左側・漆喰壁の向こうが曼殊院。このあたり、秋には紅葉がきれいなはずだ

 世に「三不動」と呼ばれ高名な、不動明王を描いた3幅の仏画がある。
 高野山・明王院の「赤不動」(重文)、京都・青蓮院の「青不動」(国宝)、そして近江・園城寺(三井寺)の「黄不動」(国宝)がそれで、いずれも平安初期の作。
 園城寺の「黄不動」を近い時代に正確に写したのが、曼殊院の「黄不動」。現代ふうにいえば「模写」ということにはなる。原本に加えて写しも国宝という例は、他に思い当たらない。
  「写し」とはいっても、それ自体が不動明王、みほとけそのものとして、礼拝の対象となることを前提として制作されており、現代の模写とは少し性格が異なると思う。
 それゆえか、図像をただ図像として愚直に写しとるのみならず、絵のさらに奥にある魂までもが、絵師の筆には託されているように感じられた。
 つまりは「硬さ」を感じさせるところがなく、絵画を観るというよりも「お不動さん」に相対するという意識がすんなり先立ってくるのである。
 曼殊院の「黄不動」が同種の模本のなかでもすぐれた作例とされるのは、単に最古と目されるからだとか、保存がきわめてよいだとかのみならず、そういうところがすぐれているということなのだろう。

 ——曼殊院の「黄不動」は、このたびの公開を最後に「秘仏」となるという。
 これまでだって、頻繁に公開されてきたわけではけっしてない。それでも、これからは「秘仏」ですよと云うのだから、拝観の機会はよほど減る(ほぼない)のだろう。間に合ってよかった。

枯山水の庭園。以前訪れた際には、右の緋毛氈のあたりで新郎新婦の写真撮影がおこなわれていた
緋毛氈を進んでいったつきあたりに、ひときわフレッシュな建物が見える。これが、新築の宸殿。撮影は緋毛氈までとのことで、以降は控えた。
曼殊院外周に生える、分厚い苔。関東では、これほどの立派な苔にはなかなかお目にかかれない



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