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オムニ・スカルプチャーズ:1 /武蔵野美術大学 美術館・図書館

 「オムニ・スカルプチャーズ」のため、ムサビへ。
 現代彫刻のトップランナー勢ぞろいのこの展覧会は、開会後しばらくは学内限定公開にとどめられていたが、曜日を限った予約制でようやく一般公開にこぎつけたので行ってきた。

 石鹸の累積物を林立させた青木野枝さんの《立山/小平》。すり減り、角が取れて薄くなった石鹸は一見してそれとわからず、カラフルなケルンだな、賽の河原のイメージもあるだろうなといった程度の所感だったが、キャプションを見て驚いた。いわれてみれば、先ほどから清潔な香りがあたりに漂っていたじゃないか。
 色の調和や整列ぶりは純粋に「心地よい」といえるものであるし、相手は清潔の権化・石鹸である。それなのに、そうともいえないこの感じは……やはりそこに、こうして痩せ細るまでこの石鹸たちを酷使した人間の存在を背後に感じるからなのだろう。ちびた石鹸はカラッカラに乾いてはいるが、わずかに水分を加えてあげただけでするんと崩壊してしまう。そんなアンバランスさも、不安をかきたてる。
 同じ部屋には金氏徹平さんによる、仏壇や仏像のかけらを観音開きの衝立状や球体状に構成しなおした作品もあった。
 青木さんと金氏さんのどちらもが、無惨に打ち棄てられた、かつて何者だったなにかを再構成して表現の糧としている。人肌に触れて、みずからの身を削って汚れを落としてやっても、その核の部分は使いきられずに残ってしまう石鹸の皮肉。礼拝の対象として崇め奉られ大切にされたものが、拝む人や場所、機能を喪失し、不気味な残欠に成り果てる仏具の残酷。大量消費社会の暗喩でもあるだろうか。

 青木さんの石鹸と同じく、嗅覚に訴える作品が別の展示室にもあった。舟越桂さんの木彫で、いずれも樟(くすのき)を材としている。あたり一帯が、ほのかな芳香につつまれていた。
 《マスク》。タイトルに思わずどきりとするが、顔面のみを彫りあげ、壁に据えつけた「仮面」のような作品で、口がマスクで覆われているわけでもない。言葉遊びを狙った命名かは判然としないが、他人の鼻と口を生で見る機会が極端に減っている現在にあっては、本来、顔のパーツとしては最も注意を引く存在といって差し支えない目という部位を差し置いて、その端正な鼻筋と口許の造形をまじまじと観察してしまうのも無理はないだろう。これもタイトルの魔力がなせる業か。(つづく


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