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李禹煥:3 /国立新美術館

承前

 さまざまな素材のなかで、最も頻繁に登場したのは石であった。
 作者が選びとった石は、よく観察すれば形状や色・模様におもしろみを見いだせはするものの、基本的には変哲のないものといえよう。
 ど派手な褶曲(しゅうきょく)はない。磨けば宝石になれる原石でも、アンモナイトの化石が含まれていることもない。路傍にあれば素通りしてしまいそうな、ただの自然石だ。
 そしてどの石も、どこかから拾って持ってきたまま、なんの加工も施されていなかった。
 ここにきて思い出すのは、イサム・ノグチのことである。
 ちょうど昨年の夏から秋にかけて、東京都美術館でイサム・ノグチの回顧展があった。

 ノグチもまたキーとなる素材として石を頻用した作家だが、きわめて対照的。ノグチは、自然物を侵食するように鑿を穿ち、滑らかに整えた。あえて一部を自然のまま残しておくことで、加工の跡が際立っている作もある。

 李禹煥の作品で、石に手を加えた要素があるとすれば、置き方だろうか。
 野ざらしになっていたときとは異なった角度で、置かれている。野にあるときは、おそらくここが地面に接していたのだろうなという面が、ことごとく露出していたのだ。
 加工といってもこのくらいのもので、「彫」っても、「刻」んでもいない。これは「彫刻」か。
 「彫」り、「刻」むとすれば、それは周囲の空間を含めた環境全体に、といったことであろう。空間に、楔を打ち込む……

 とくに、自然物=石となんらかの人工物=ガラスや金属などの組み合わせからなる作において顕著なのが、悪い意味ではなく「違和感」である。
 自然のなかにあっておかしくないもの、もとい、そうあってしかるべきものが切り離されて、がらんどうの室内空間に、人工物と対置されている。
 人工の産物で満たされた空間の「和」のなかに、毛色の「違」ったものをそっと置くことで、ささやかな風穴を開ける。開かれた穴は、鑑賞者のなかでじわじわと拡がっていく。

 こう考えるとたしかに、これは「彫刻」だ。
 オブジェやインスタレーションとは、えてしてそういった性格をはらむものだが、作者は最もシンプルな形で場を彫り、刻んでいるのだ。(つづく

《関係項─サイレンス》(1979/2005)



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