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李禹煥:1 /国立新美術館

 李禹煥(リ・ウファン)の大回顧展は、インスタレーション主体の前半部「彫刻」と後半部「絵画」からなる二部構成。各部で、制作年に沿った展示順とされていた。彫刻・絵画の二段構えとした一点を除いて、作家の回顧展としてはオーソドックスな構成といえよう。
 とはいえ、この構成によって作家の歩みや作風の変遷が手に取るように理解できたかといえば、正直のところ、むずかしかった。
 これには、作品解説や章解説といったテキスト類が、会場から徹底的に排除されていることも大いに関係する。順番がガチガチに決められているというよりは、回遊性がある程度許容されるレイアウトでもあった。
 また同時に、それくらい、彼の活動には長年にわたってブレがなかったともいえるだろう。
 じっさい、韓国・日本・世界の現代美術の潮流や傾向によほど通じていなければ、テキストという補助線のない状況下で、作品そのものから変化の兆しや表れを感受し、脈絡づけていく作業は困難をきわめると思われた。
 わたしの場合、その実現は最初から望むべくもなかったわけであるが、それならば本展が「通だけが楽しめる展示」だったのかと問われれば、答えは明確にノーだ。
 白くて広い会場のなかを、ただ呆然と彷徨う。あるいは「ここにあるもの/あそこにあるもの」、そして「わたし」との “関係” に思いをめぐらせる。こういった時間を過ごすだけでも、じゅうぶんに得られるものがあると思われたのである。

 李禹煥の語る言葉は難解・抽象的で、かなりとっつきにくい。
 それなのに、作品に対しては、ある種の「近さ」をずっと感じていた。
 彫刻作品ならば、ただの石の塊や木材、鉄板など、どこにでも転がっていそうな混じりっけなしの「もの」である。絵画作品ならば、高度なテクニックはどこにもなし、線や点以上でも以下でもない。こういったあたりが、「近さ」をいだく理由としては大きいのだろう。
 そして、そんなそのまんまの卑近な「もの」が、置かれる空間、位置、組み合わせ、時間によって、違った磁場を生み出す。
 平凡なものとものとのあいだに新たな関係性が結ばれ、場が構築される。
 そこに意外性があるのであり、鑑賞者を深い思索へと誘うのだ。

 鑑賞からしばらく経ったいまになって思うのは、あの会場のなかに小難しい言葉がひとつでもあったら、みずから感じ取ろうとする意志は、ずいぶんと阻害されたであろうこと。言葉に頼りきり、字面の意味にとらわれてしまうのである。
 作家の言葉だって、作品と同じように、ひとつひとつが丁寧に紡がれたものには違いないだろうけども……あそこに言葉がなくて、やっぱり助かったなと、少なくともわたしは感じる。

 ――すでに言葉をもっている「通」の人は、テキストと照らし合わせながら。そうでない人は、作品と相対するなかから。
 プロやベテランにも、ビギナーにも、どちらにも対応可能。
 オーソドックスなようでいて、じつはそのようなたいそう練られた構成であったのだと、いまさらながら思うのである。(つづく




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