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背後にひそむもの 美と民藝:2

承前

 冒頭に取り上げた箇所は「壺屋と上焼」の節だけでなく、本全体の「序」にもそっくりそのまま引き写されている。
 直前には次のような一節がある。

ここに集めた一連の章句は、色々な作物の裡に隠されている背後のものを求めての歩みの一部である

(「序」)

 同種の記述は、随所に見受けられる。

 河井の考えを抜粋して組みなおしてみると、「直接に物とは縁遠い背後のもの」「裡に隠されている背後のもの」とは「土地と歴史、伝統と環境、環境と暮し」(「手仕事の塔」)という。
 これらはたしかに、河井自身のいうとおり「直接に物とは縁遠い」ものに思える。
 しかし、それら隠された「背後のもの」を意識しだした瞬間に、モノの見え方に新たな奥行きが生じるのもたしかだろう。

 少し極端な例だが、あるガラクタに対して「これは聖徳太子の遺愛の品です」「弘法大師の彫られたお像です」といった説明が加えられれば、その瞬間にガラクタはガラクタでなくなり、崇高さを帯びた存在と化す。
 さらに具体的で信憑性のある情報ならば、なおさら豊かな、新しい受け止め方が生まれるだろう。
 得体の知れない器物に関して「これは新潟の農家で使われていたものです」と言われれば、雪深い越後、荒れる日本海、厳しい自然に身を置いた人々の暮らしを支えた姿までもが、もくもくと浮かび上がってくるではないか。

 このように、「背後のもの」を知っているかどうかで、モノから受け取る印象は大きく変わる。付帯的な情報は、あるモノを、目で見える範囲以上に増幅させることができてしまうわけだ。
 これは、扱いようによっては危険なことであり、同時に、おいそれと切り捨ててはいけない重大性をはらんでもいる。

 同じく、「序」の一節。

材料と技術さえあれば、どこでも美しい物が出来るとでも思うならば、それは間違いであると思う

(「序」)

 モノを前にすれば、「材料と技術」は直截的に把握できるものだ。
 けれども、材料のよさや技術の高さは、美にも、その要因にもなれないのだと河井はいっている。
 河井はつくり手=実践の人。さらに、若き日に「釉薬の天才」といわれたほど、科学的な技術・視点すらもっていた。彼にしてみれば、そもそも「材料と技術」など丸裸、赤子の手をひねるようなものだったことが、この言葉の前提にありそうだ。
 そんな河井にとっての「美なるもの」とは、けっして「材料と技術」を駆使しただけの、無味乾燥で即物的な性格のものではなかった。
 その背後にかならず多くの人間の営みと風土のにおいを背負い、染みついて離れないものこそが、彼の考える最上の「美なるもの」、すなわち「民藝」だったのだ。(つづく


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