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太郎坊宮から瓦屋寺へ 秋の近江路を往く:2

承前

 赤神山の太郎坊宮から、お隣・箕作山の瓦屋寺へと向かう道の途中、分岐点に差し掛かった。

 このなんとも頼りないポイントを右折した結果、道なき道を行くことに。
 いちおう言い訳をしておくと、左は登りで、方向的にも赤神山の山頂につながっているだろうと思われたのだが……つくづく、わたしの方向感覚は当てにならない。
 引き返しもせずに、マップと方位磁針を頼りに30分ほど山中を彷徨していると、傾斜40度の斜面に近世の石垣を発見。瓦屋寺の塔頭跡と思われた。前に人が来たのは、いつのことだろうか。

彷徨中。石垣を撮影する余裕はなかった

 ふと、鐘の音がゴーンと鳴り響き、寺の方角を教えてくれた。ありがたき。
 人がいないのをいいことに「♪お寺のか〜ね〜が聞こえる」(『わたしの城下町』の2番)と歌いながら山中を突っ切り、事なきを得た。
  「どうにかなるだろう」的精神は、ことに山においては捨て去るべきだと、この期に及んでようやく学んだのであった……

舗装された道沿いの鮮やかな紅葉が、ご褒美に見えた

 木のテーブルとベンチが置かれた見晴し台を発見。
 さすがにつかれた。ここいらで、お昼にしよう。米原駅で調達した名作駅弁「湖北のおはなし」を広げ、御開帳本編へ向けて仕切り直し。

蒲生野が一望のもと
見晴し台はこんな感じ。彷徨の末、名作駅弁の名作おかずたちは、片側に寄りまくっていた。なので写真は載せないが、美味であった。弁当の詳細は上のリンク参照

 瓦屋寺の境内では、紅葉がいまさかりなり。足もとには苔の絨毯。ため息が出る。

瓦屋寺の本堂へ。落ち葉がハート形にかき集められていた
名前は瓦屋寺でも、本堂の屋根は茅葺き

 この本堂を入って正面に、御本尊《千手観音立像》(平安時代・12世紀  重文)がおわした。公式サイトに、きれいな画像が掲載されている(※ブラウザ版では画像が潰れて見えるため、スマホでご覧ください)。

 きわめて稀少な、古代の「真数千手」である。
 千手観音像の腕の数は、多くの場合、1000本もない。1本を複数分の腕になぞらえるなどして、省略して造形化されることがほとんどだ。
 本作は「真数」、つまり1000本の腕を実際にもつ。一部は簡略化され、経木のような木片を差し込んだ形になっているけれど、これらを含めてほんとうに1000本の腕からなることが、調査時に確認されている。
 このお像を観て「現代風の顔つきだなぁ」とつぶやく御老人がいた。かたわらで聞いていて「はて?」と思ったが、もう一度お顔を見つめると、いわんとすることがわかる気がした。
 絵巻に描かれる「引目鉤鼻」のような顔つきが、世間一般にいわれる「日本人らしい」容貌だとすれば、このお像はかなり彫りが深く、「日本人離れ」したエキゾチックな顔立ち。経年の木肌の色みも、その印象を奇しくも補強する。こういったあたりから、御老人は「現代風」との形容をしたのだろう。

 エキゾチックな顔、さらに檀像(だんぞう)を意識したと思われる端整な造形は、もっと古く、平安時代のはじめにみられる特徴。それゆえこのお像は、復古的な要素が強いお像といわれている。
 つまり「聖徳太子御作」という伝承はあくまで伝承にとどまるのだが、御本尊であるこのお像にそのような伝承がついているのは、ゆえなきことではない。
 聖徳太子が大阪の四天王寺を建立する際、この地の土を使って大量の瓦を焼かせたことが、瓦屋寺の起源とされているのだ。瀬田川の水運を使えば、難波潟までは遠くない。さらに、山の麓からは、白鳳期の瓦窯址が見つかってもいる。
 八日市の周辺は太子信仰がさかんで、創建に太子が関わったとする寺が多くあるのだが、瓦屋寺の逸話にはとりわけ真実味が感じられる。
 白洲さんは、こう書いている。

今は禅寺に変っているが、推古の寺はいつまでも推古の面影を失わないのはおもしろい

「近江路」 『近江山河抄』より

 戦国期の瓦屋寺は、信長軍の兵火を受けて荒廃の一途をたどった。また古代より華厳、天台、臨済と、宗派を何度も変えている。
 しかしながら、幾重にも積み重なった激動の奥底に、太子の息づかいがいまも確かに感じられる山寺である。(つづく


「御本尊さえ写さなければ、撮影はご自由に」とのことだった。御本尊を納める厨子と、四方を守る四天王




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