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没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡:1 /千葉市美術館

 江戸時代に西洋風の絵を描いた画人——「洋風画家」として、最も知られる存在は司馬江漢(しばこうかん)、その次にくるのが本展の主役・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)であろう。
 田善は江漢に師事するも、やがて疎んじられてしまったのだとか、いやそもそも接点があったかどうかすら怪しいのではなどといわれていて、本当のところはよくわかっていない。
 ただ、現今の知名度としては、江漢のほうに分がある。日本における銅版画の祖という、輝かしい肩書きがあるからだ。田善の名は、江漢というビッグネームの陰に隠れてしまっている感じもする。

 そんな江漢自慢の銅版画を「はじめて製すれども細密ならず」と、ぶった斬った人物がいる。田善の主君・白河藩主の松平定信である。
 映像や写真が、まだなかった時代。西洋画の技法と銅版画の技術は対象を「細密」に、そして写実的に描き、また多量の複製を可能とする最新鋭の記録手段だった。芸術表現というより実利的なもくろみがあって、定信はすぐれた銅版画を欲したのであった。
 さて、江漢の銅版画が、どうもお気に召さなかった定信。もっとレベルの高い銅版画を製作できる人物はいないものか……白羽の矢を立てたのが、城下の染物屋の次男坊・永田善吉だった。出逢いはまったくの偶然だったというが、定信は善吉の隠れた画才を見逃さなかった。定信は、これから善吉を一流の銅版画家に仕立て上げてみせようと決めた。
 驚くべきは、このときの善吉の年齢である。じつに、47歳の挑戦であった。
 定信の庇護のもと腐食銅版画の高度な技術を身につけていった善吉は、ついに、主君の満足する力量に達する。
 できあがった絵を前にして、定信は「亜(=アジア)欧(=ヨーロッパ)両大陸を眼前に見る心地す」と述べた。「亜欧堂」の号の由来である。「永田善吉」略して「田善」をつけて、洋風画家「亜欧堂田善」がここに誕生した。
 田善に関しては、まずこのはじまりのエピソードからしておもしろく、魅かれるものがある。

 ところで、美術館を訪ねる前日に、NHKで「リスキリング」の特集をたまたま視聴した。
 リスキリングとは、現在の職場に身を置きながら、職場のバックアップのもとで新たなスキルを習得しなおし、専門分野を切り開いて、これまでとはまた違ったポジションで社へ貢献する——といったものらしい。デジタル分野への対応で、さかんにみられるとか。

 絵の素養はありながらも職業画家ではない、一介の染物屋だった田善47歳は、主君・定信の全面的な支援のもとで銅版画の技法を修め、以降は銅版画家として定信のもとで公的な仕事を多くこなしていった。
 「田善、まんまリスキリングじゃないの!」
 そんなふうにひらめいたわたしは「しめしめ、あとで書いてやろう」とひそかにほくそ笑んだものだが、NHKの人も同様の着目をしたらしく、別の番組で田善とリスキリングをつなげた特集が後日組まれたのだった。
 後出しじゃんけんのようで口惜しいが、この気づきによって、田善の存在がかなり身近に感じられるようになったのは確かである。(つづく



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