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没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡:2 /千葉市美術館

承前

 田善という画家を初めて認識したのは、高校生向けの日本史の資料集に載っていた《浅間山図屏風》(東京国立博物館 重要文化財)のカラー図版だった。

 「紙に油彩」という珍奇な技法で描かれるこの屏風が、田善の代表作とされている。江戸時代に描かれた油絵としては、最大級ともいわれる。
 壁のようにそびえる、浅間山。近くで見上げれば、たしかにこれくらいの圧がありそうだ。東海道線に乗っているといきなり目に飛びこんでくる、富士山や伊吹山の姿が思い出される。絵空事を感じさせないドスンとした山の実在感は、近代の絵でもそうはないものだろう。
 雲海と緑の丘陵を挟んで、手前の禿げ山には樵(きこり)の伐採と作業の跡がみえる。裏手の森からはもくもくと煙があがっており、炭焼き場だとわかる。
 この「もくもくとした煙」というのは、田善が繰り返し用いたお気に入りのモチーフ。本作においては、炭焼きの煙と浅間山からあがる噴煙のふたつによって、名山のもつ悠然・雄大の感じがよく出ている。もっとも、煙が噴火を思わせなくもなく、少々物騒ではあるけれども……

 《浅間山図屏風》には、下敷きになった図様がある。田善と同じく、松平定信の周辺にいた先輩格・谷文晁の《名山図譜》の一図を、田善はほぼそのまま借りているのである。

 見比べてわかるように、近景に禿げ山と炭焼きの情景をつけくわえたのは田善の創意。たいへん効果的な構図処理といえるが、「情景」というに違和感があるのは、人間の不在ゆえ。炭焼きという人事が描かれるにもかかわらず無人、お留守なのだ。
 ここにはもともと、西洋の銅版画から(これまた)図様を借りてきた働く人間が2名いたのだが、制作の過程で消去されてしまった。それは田善が検討に用いた下絵から、うかがい知ることができる。紙を破き、浅間山と近景を入れ替えながらの試行錯誤が繰り返され、この構図に落ち着いた。

 田善という画家について語るとき、真っ先に掲出されるのは、わたしが見た日本史の資料集がそうだったように、この油彩画のカラー写真である。
 だけれども、田善の本分・本領は、どちらかといえば版画のほうにあった。拙なるやわらかみとキッチュさを感じさせる油彩とは異なり、銅版画は本格的。いまふうにいうならば “キレッキレ” である。
 タブローや肉筆が重視され、プリントが一段下にみられる伝統的な価値感も背景にはあろうが、印刷物として映える、画像として目をひくのは色つきの絵のほうだという事情があるのだろう。
 それに対して、本展のリーフレット・ポスターのデザインは、モノクロームの銅版画が2点。かなりの強いメッセージ性、こだわりを感じる。
 会場でも、田善の銅版画家としての「創造の軌跡」が、非常に多くの銅版画作品を提示しつつ、丹念に追われていた。

 美術館だよりによると、千葉市美術館で江戸の洋風画のみをテーマとした展覧会を開くのは初めてだという。とても意外だと思った。
 それでもやはり、版画全般、そして江戸絵画を大得意とする千葉市美術館としては、いつかは向き合わなければならない必然のテーマでもあったろうと思われるのである。(つづく)


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