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没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡:3 /千葉市美術館

承前

 田善の「創造の軌跡」は、舶来の出版物の模倣からはじまる。
 文脈から切り離してモチーフを抜粋、換骨奪胎。このさまを、展示ではもとになった図と田善の作を並べて浮き彫りにする。
 もろ、トレースである。作者本人としては「やめてくれ~」といったところであろうが、模倣から創造が始まるのは世の常。印刷物のとりとめのないカットを、まったく別の絵画作品に落としこもうという発想そのものに創造性があるともいえるし、田善がどのような対象に興味を示したか、どんな資料を参照できていたかがわかる点は貴重だ。
 作品解説では、初期作は技術的にはまだまだ……といった書かれ方がされていたけれど、じゅうぶんに高度なものと映った。主君・松平定信が感嘆したのも無理はない。
 ただし、展示が進んでいき、後年の版画作品を観るにつけて得心がいった。もっとこなれてきた頃の作は、まさに “キレッキレ” なのである。
 とくに、絵はがきサイズの小型の江戸名所シリーズ。《品川月夜図》《二州夏夜図》(『銅版画東都名所図』のうち 須賀川市立博物館 重文)の余情をみれば、すぐれた技巧のみならず、絵としてもかなりの完成度であることがわかる。

 ※展示で拝見したのは後期展示の須賀川市博所蔵のものだが、前期は神戸市博所蔵のもの。ホームページでは、高精細画像を拡大し放題だ。


 絵画作品の制作だけでなく、銅版画の専門家として、定信のもとで公的な事業にも携わった。幕府が初めて出版した世界地図『新訂万国全図』は、その代表例。

 田善が定信の御用を辞したのは、松平家が白河から桑名に移封となり、銅版画制作に必要な材料が手に入りづらくなったからといわれる。当時としてはすでに老齢に達していたから、潮時ということもあったのだろう。田善は制作に使用していた道具一式、原版までもすべて弟子に譲って、すっぱり版画をやめてしまう。
 以降は比較的描き込みの少ない山水画や人物画が中心で、肩の力が抜けた軽やかな筆致をみせる。頼まれて描くことも多かったというこれら晩年の作は、地元・須賀川に多く伝来した。75歳で死去。

 ——この原版の行方がおもしろい。
 原版を布地にプリントしたものが小物に仕立てられ、売り出されたのだ。
 会場には煙草入、煙管を入れる筒袋、口をきゅっと絞められる合切籠、さらに帽子といった代物まで出ていた。

 作品リストから拾ったのが、以下。表記は「意匠(形態)」となっているが、なんだかシュールな文字列……

・驪山比翼塚(煙草入)
・動物と市松模様(筒袋)
・ヴァイオリン(合切籠)
・ピョートル大帝像(筒)
・籠造り・人物・西洋風景図(帽子)
・《ザウデル・ゼー》と《花模様》による帛紗
・雲龍図(半襟)

 ほかに、帯もあるらしい。
 この種のグッズはよく売れ、須賀川みやげの定番商品になったとか……

 原版の転用は譲渡された弟子・八木屋半助によるものとも、田善本人が関わっていたともいわれ、判然としない。弟子思いの田善から「原版、好きに使っていいよ」といった申し渡しがあったうえでのグッズ化かもしれない。
 使用後の原版には、無断転用を防ぐため、なんらかの処置をするのが通例だ。先日訪れた浜口陽三のギャラリーでは、たすき掛けをするように大きな×状の線が刻まれていた。そういった処置を田善がしなかったということは、活用を見越して譲ったともいえるのか、否か。
 グッズ化のみならず、一枚の版画として摺り直され、流布されることもあったという。そのため、田善の銅版画には後摺りや真贋の怪しい作が多いのだとか。著作権などという概念がない時代の話ではあるものの、いろいろと考えさせられる。

 ——ただ……
 この田善グッズ、わたしは「欲しいな」と思ってしまった。煙草入はカード入れにぴったり、なんて。
 ひそかに期待をいだきながらショップに向かったけども、商品化はされておらず。
 田善の作品・資料の多くを所蔵する地元の須賀川市博物館さんあたりが、それこそ原版を再利用して、グッズとして売り出してくれないものだろうか……出たら、買います。


 ※千葉市美術館の上のレストランでは、展覧会限定メニューが。「亜欧堂おでん膳」。ひと月前は、冬でしたからねぇ。


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