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書の紙:3 /成田山書道美術館

承前

◾️雲紙、飛雲紙

 伝飛鳥井雅有《八幡切》(鎌倉時代  成田山書道美術館)にみられるような、天地に藍・紫の霞をたなびかせる料紙を「雲紙」「内曇(うちぐもり)」と呼ぶ。
 着色した繊維を重ねて漉く、日本特有の技法。平安以来、和歌巻や短冊に長く使われ、現代でも「もどき」をしばしばみかける。
  「飛雲紙(とびくもがみ)」は、着色した繊維を部分的に散らしたものをいう。
 2月らしくチョコレートにからめて例えると、雲紙はオールドファッションの一部にチョコをかけたチョコファッションのドーナツ、飛雲紙はチョコチップ入りのドーナツという感じか(なんだこの例え)。
 飛雲紙にしたためられた伝紀貫之《名家歌集切》(平安時代  成田山書道美術館)。繊細な筆に、胸を打たれた。その合間に控えめな主張をみせる飛雲は、まさに名脇役。

◾️唐紙

 雲母摺りが施された中国渡来の紙、また日本でそれを模してつくられたものをひっくるめて「唐紙」と呼んでいる。
 《石山切伊勢集》(平安時代  成田山書道美術館)は、華美にして壮麗。舶載の唐紙はもちろん高級品であったから、この上に筆を走らせるのは、なかなかに緊張感があったことだろう。

 光悦の金銀泥下絵和歌巻の断簡も出ていた(個人蔵)。唐紙は1つの大きな版で1度に摺るが、光悦の場合は小さな同じ版を何度も、角度や濃淡に変化を加えて、パターン化して摺りだしている。
 この断簡については図版が見当たらないので、別の出品作をご紹介したい。光悦の周辺で制作された伝角倉素庵《後撰和歌集巻》(成田山書道美術館)。
 こちらに関しても、光悦の和歌巻と同様の版木の使い方がなされている。書風の類似はいわずもがなだ。
 ちなみに、本展には出品がなかったものの、光悦は唐紙を使った平安の名筆《本阿弥切》(国宝  京都国立博物館など)を所蔵していた。古典をもとに、革新を起こしたのである。

 近代の唐紙の名工・宮田三郎の仕事を回顧するコーナーも。宮田が唐紙づくりに使っていた道具類、宮田作の唐紙を使用した書家の作品などが展示されていた。

◾️雲母砂子、金銀箔、下絵などの装飾

 大田蜀山人(南畝)の《七言絶句》(文政元年〈1818〉)は、自身の古稀を祝して書かれた。鍬形蕙斎による桃花に小舟の下絵がついた、異色の共作である。
 通常は上部に余白を残して絵が描かれ、そこに賛を書き入れる。絵と賛のゾーンが分かれ、重なることはない。
 本作の蕙斎は黒子に徹し、蜀山人は絵の上から遠慮なく、しかし字の配りや絵とのバランスも考えながら揮毫している(「桃」や「果」の字が、枝からぶら下がっているようにみえなくもない)。
 蕙斎は蜀山人の15歳下。古稀のお祝いに、先輩を立てたということか。
 あるいはふたりで相謀って「こんなこと、やってみたらおもしろいのでは!?」と盛り上がって、このような作ができたのかもしれない。
 いずれにしても、懇意の間柄でなければ生まれえなかった珍品であろう。

 手鑑でおなじみの伝光明皇后《蝶鳥下絵経》(奈良時代  成田山書道美術館)。
 蝶も鳥も、とってもかわいい。やんちゃな者がときおり界線を踏み越えて、文字の狭間に遊んでおり、微笑ましい。
 字は小さく細め。優美で、伝称筆者を女性とするのがよくうなづける作。

 本章では、下絵のほかにも雲母や金銀の砂子・箔を散りばめたきらびやかな書が並んだ。
 伝紀貫之《高野切第二種》(平安時代  成田山書道美術館  重美)には、粒子状の雲母が漉きこまれている。3行でも、きらめきは眩しい。単眼鏡でじっくり拝見した。

◾️打紙

 展示は1階に戻り、最終章に入った。
  「打紙(うちがみ)」とは、木槌で打つことで繊維の密度を上げ、なめらかで書きやすく、光沢のある紙とする加工。にじみ止めの効果もあり、主にこの点に関して作例の紹介がなされていた。

 ——書の鑑賞が、よりいっそう楽しくなることうけあいの本展。絵画の分野でも、同様の試みを拝見してみたいものだ。
 墨流しや破り継ぎなど、言及されなかった料紙装飾もある。続編に期待。

成田と同じ京成線沿線・市川の中山法華経寺に寄り道。祖師堂(重文)の大屋根の葺き替えがようやく終わっていた。東博の光悦展を前に、光悦の分骨墓にも参拝
法華経寺周辺には猫が多い


 ※東京国立博物館の光悦展では、成田山書道美術館所蔵の書状が出品。くだけた、いい字だ。



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