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大人になってからやり直し始めた、学校の勉強がめちゃくちゃ楽しいという話

やあ、諸君。今日も元気かな。まあ、我々の記事を読むような人は、生まれてこの方悩みなんか抱いたことのない不感症の暇じ……げふん!体力と時間に余裕のある優雅で健康な紳士淑女と少年少女であるだろうし、あまり心配はしていないかな。
とはいえ手洗いうがいは忘れるな。

今回はタイトルの通り、大人になってする勉強は非常に楽しいぞという日常話である。心に突き刺さって忘れられないような真面目な話題は一切ないので、そんなものを期待してる坊さん尼さんは、とっととスマホを閉じて愛用の聖書を開いてマリアサマデマスデモカイテナ!へっ!

数学を学び直し始めた。その前にぼくと勉強の話

さて、ぼくはまあまあ世間的には受験生に人気の私立大学の文系学部を卒業したが、実を言うとそんなに頭が良かった方ではない。
小学生の頃はいわゆるお受験ブーム。テレビではちょうど「受験の神様」なんかが放送され、夏休みには有名進学塾の鬼の合宿がニュースで特集されていたような時代だった。そんな流れもあって、苦手な算数を克服する目的で通わされていた塾の友達がこぞって私立中学を受けると言うのでその影響もあって私立中学受験を志した。
しかし、いざ受験が始まると成績はズタボロで親の期待を裏切ること幾千。試験のシーズンの頃は学校も休みがちになり、学校に行かないせいでちょっとしたいじめのようなものも受けたりした。
最終的には二科目受験生の中でおそらく唯一(その学校受験番号で選択科目がわかる)4次募集で引っかかり、隣町の、地元の公立中学よりちょっぴりましな、ミッション系の私立に進んだ。

 さて、中学最初の定期試験の話は是非させてもらいたい。上述の通りぎりぎりのお情けで合格させてもらった成績なので最初の前期中間考査は98人中80位と言う屈辱的な成績を残した。一番低いのは数学。ワーストセカンドは英語。一番良かったのは家庭科。将来、家政婦さんにでもなるのかと母親に詰られたものである。いや、職業差別だぜ。マイマム。
一貫校で、高校は県内でも悪くない位置にある中堅進学校ではあったらしく、授業の進みは結構早く、中学三年の終わりには数IAの内容に踏み込んでいた。こういう環境も肌に合わず、数学の成績は低空飛行の一途であった。
 このようにぼくは数学についてはどうしようもなく苦しめられた。高校一年生の春の時の偏差値は42。偏差値42はチンパンジーである。担当してくれた先生の厳しさと面倒見の良さもあって冬ごろには51というまあ、やや人間らしい成績にはなったものの苦労してもこのくらいにしかならないことを考え、より難しくなって行く二年三年で数学を学ぶ意志をくじかれてしまった。ぼくは数学が嫌いで仕方なかったのだ。

けれど、数学が今とても楽しい。

手を焼いたボウヤほど愛おしいというアレなのかもしれない。ぼくは今、ちょっとした個人的な決意と目標もあって数学を基礎的な部分から勉強をし直している。そして、ひどく驚いた。

結構楽しいのだ。
算数も含めれば小学の頃からずっと苦しめられてきた数学を四半世紀生きて初めて楽しいと感じた。
今は中学校の平方根や式の展開、因数分解を復習しているところだが、まず懐かしい。中学校生活の記憶が思い起こされるのだ。そういえば、数学が得意な女の子にノートを貸してもらったなとか。昼休みに勉強に付き合ってもらったなとか。数学の担当教諭が自分の部活の顧問で成績が伸びなくて申し訳なかったなとか。いろんな思い出と感情が溢れて胸が締め付けられそうになる。
 次に、大人になって色々な経験をしたことで多面的な切り口に気がつく点が楽しい。あの頃苦手でつまづいていた箇所の対処が容易に感じられるのだ。世間的には加齢とともに記憶力や思考力は衰えるとは言うが、人生経験から総合的な判断が下せるようになり、あの時はよくわからなかった解法が容易に理解できるようになる。また、理解に必要、あるいは有効な情報とそうでない要素を整理して考えられるようになっているお陰で、学習にストレスが少ない。また、社会に出たことで数学そのものが実生活においてどんなふうに役立てられるかを知っているためモチベーションも違う。そして、何よりも押し付けられたことではなく、ほかの誰でもない自分自身の意志で勉強しているからこそ嫌々という気持ちが起こらない。
なんだか転生して異世界で無双する小説が流行る理由がよくわかる。まるで強くてニューゲームのような万能感と自己肯定感に包まれるようだ。

終わりに

学び直しはまだ始まったばかりだ。これから高校の時の未履修の範囲を学習する時は、ここで述べたような気持ちでは上手く行かないかもしれない。しかし、ワクワクするのだ。友よ、未知とは征服されるためにこそ存在する。
 もしもあなたがまだ学生ならぜひとも分かってほしい。あなたが今、嫌々向き合っている勉強は必ず社会に出ても役に立つ。古文や漢文を原典とする日本語の表現や名称なんかは山ほどあって結構当たり前のようにビジネスマン同士のやり取りの中で使われることもある。そもそも近現代の日本語は明治時代以後に西洋の概念を漢文の言葉から訳を当てて生まれたものばかりだ。英語は今やできることが当たり前の時代になってきているし、企画書や報告書では数字付きのエヴィデンスがなければ組織を説得できない。そういったものの力を醸成するのは紛れもなく机に向かった時間なのである。

 さて今後のぼくの勉強については、時間的な余裕を作って化学や生物などの科目も勉強したいと思っている。その時どんな新しい発見があるのか、期待に胸が膨らむばかりだ。
 これを読んでる紳士淑女の諸君らも高校の卒アルを引っ張り出して夜の慰みに使ってばかりいないで、たまには教科書を広げて勉強し直してみてはどうだろう。きっとぼくがここに書いた想いが自分のものになるはずだから。


(kobo)

タイトル画像
https://pixabay.com/ja/photos/数学-黒板-教育-教室-1547018/



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