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今日芥川龍之介を読むということ

 芥川龍之介の文章は作文です。嘘ではない。しかし彼の力がとらえ得る狭さをスタイルの確固さでかためようという努力がつよくみられる意味で作文的です、少くとも。文学の永生の一要素はスタイルであると彼はいい、メリメを愛した。しかし面白いわね、彼が今日および明日よまれるとして、それは彼の生涯の歴史的な矛盾の姿がよませているのだから。この場合、スタイルさえもその矛盾の一様相として現れている。

(宮本百合子『獄中への手紙一九三九年(昭和十四年)』)

 今日芥川が読まれるとして、われわれは宮本百合子が言うように「彼の生涯の歴史的な矛盾の姿」に読まされているのだろうか。「彼の歴史的な矛盾」とは何なのか。

 果たして歴史は矛盾するものであろうか?

 宮本百合子の言う「彼の歴史的な矛盾」の意味は定かではない。



芥川龍之介についての座談会で久米の云っているところなどでは、彼は、人のよむものは何でもよんでおけというような負けん気で古典もよんだりしたらしい風ですね。

(宮本百合子『獄中への手紙一九三九年(昭和十四年)』)

古典もよんだりしたらしい風ですね。

古典もよんだりしたらしい風ですね。

古典もよんだりしたらしい風ですね。

 これではまるで芥川龍之介が根無し草扱いだ。

 果たして宮本百合子には、古典の教養に溢れた天才芥川龍之介でない何ものかが見えていたのか?

 それは誰にも解らない。

 何故なら誰も宮本百合子ではないからだ。 



 確かに芥川にも穴がある。

 しかし大抵の人より少ない方だ。

 蓮實重彦、柄谷行人に比べれば、些末なところで間違えているに過ぎない。

 ミスは誰にもある。

 漱石全集の注解者まで間違えているのだから、間違いなんて気にすることはない。ただ間違いの受け売りによる連鎖はみっともない。

 自分で判断しよう。

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