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芥川龍之介の『念仁波念遠入礼帖』をどう読むか① 「春台」とは何か

 燕雀生といふ人、「文芸春秋」三月号に泥古残念帖と言ふものを寄せたり。この帖を見るに我等の首肯し難き事二三あれば、左にその二三を記し、燕雀生の下問を仰がん。
(一)春台の語、老子に出でたりとは聞えたり。老子に「衆人熙々。如享太牢。如登春台」とあるは疑ひなし。然れども春台を「天子が侍姫に戯るる処」とするは何の出典に依るか。愚考によれば春台は礼部の異名なり。礼部は春台の外にも容台とも言ひ、南省とも言ひ、礼闈とも言ふ。春の字がついたとて、いつも女に関係ありとは限らず。宋の画苑に春宮秘戯図ある故、枕草紙を春宮とも言へど、春宮は元来東宮のことなり。

(芥川龍之介『念仁波念遠入礼帖』)

〔春台〕 chūntái
×盛んなる世.
旧時,礼部の別称.
[古白]食卓.〔〜上放下三个盏子,三条箸〕(水)食卓に杯三つと箸三膳が並べられている.

中日大辞典

春のうてな。春日眺望の楽しみ。太平のさまをいう。

https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E5%8F%B0-2830317

 さて、芥川の春台を「天子が侍姫に戯るる処」とするは何の出典に依るかという問いに燕雀生といふ人が何と答えたのかは定かではない。探してみたがどうも見つからない。「文芸春秋」の古いものを調べていけばみつかるのだろうが私にはもう残された時間がびっくりするくらいないのでここは一つ簡単にやってしまおう。

 ところが何しろ「春台」を調べようとすると太宰春台が邪魔になって仕方がない。主要な辞書類には「春台」の項目はない。芥川の「春台」の解釈に沿って調べると、まあいろいろあるが、いちがいに「天子が侍姫に戯るる処」とまでは言えないのではないかという意見は、それはそれとして間違いではなかろう。

 ただその一方で燕雀生といふ人が「天子が侍姫に戯るる処」とした理由も私には解らないではないような気がする。

 例えばこんな詩があるからだ。


独摇手          陳陶

漢宫新燕矜蛾眉
春臺艶妝蓮一枝
迎春侍宴瑶華池
遊龍七盤嬌欲飛
冶袖鶯鸞拂朝曦
摩烟裊雪金碧遺
愁鴻連環蠶曳絲
颯遝明珠掌中移
仙人龍鳯雲雨吹
朝哀暮愁引喔咿
鴛鴦翡翠承宴私
南山一笑君無辭
仙娥泣月清露垂
六宫燒燭愁風欷

 この詩に於いて、「春臺艶妝蓮一枝」なのでどうも「侍姫に戯るる」感じがなくはない。こちらは「漢宮」なので確かに王宮だ。下のリンク先から英単語への翻訳を眺めてもらいたい。完全に読み下しが出来なくとも何となく意味は通じる筈だ。


https://ctext.org/dictionary.pl


「漢宫新燕矜蛾眉」は「魏主矜蛾眉,美人美于玉。高台无昼夜,歌舞竟未足」(「銅雀妓」劉商)に拠ったところであろうか。「春臺艶妝蓮一枝」は楊貴妃をほめたたえた「一枝紅艶露凝香、雲雨巫山枉断腸、借問漢宮誰得似、可憐飛燕倚新粧」(「清平調詩 三首 其の二」李白)を想わせる。これで「春台と女は無関係」とは言い切れまい。

 もっとも「艶妝」はなまめかしい女の衣装なので、いつか述べると思うが、単に待女というよりはもう少し専門職のような感じもする。着飾ったセクシーな女性なのだ。つまり「春台」は女とは関係がなくとも、女と関係する場所でもあり得たわけである。

 また芥川は「如登春台」を「しゅんだいにのぼるがごとし」と訓じているが普通は「春、うてなに登るがごとし」と訓じる(ようである)。よくよく考えてもみれば、宮殿に「衆人」がうきうきしてわっと押し寄せる、ということは謀叛でも起きない限りないような気がする。

 つまり老子の「衆人熙々。如享太牢。如登春台」の「春台」は芥川が「礼部の異名なり。礼部は春台の外にも容台とも言ひ、南省とも言ひ、礼闈とも言ふ」と説明している「春台」とは別のものではないだろうか。「容台」「南省」はこれまた解らないが、「礼闈」は「会試」の異名である。

 偉そうに書いているが、繰り返し述べている通り漢詩は外国語であり、最終的に肝の所は掴みかねるものが多い。語順で品詞が変わる(ような変わらないような感じな)ので、解釈に迷うことが多い。

 ただ芥川は博識だな、と感心して終わるのは止めよう。今日だけは芥川に憧れるのは止めましょう。そんなことをしても何もならない。それでは現にあなた自身がこの世に生きている意味がない。あなた自身が今何かを読む意味がない。「ふーん」で片付けるなら、今すぐすべてを終わりにした方がいい。そうでないなら芥川が何と書いていようが、ねんにはねんをいれまちょう。

 ちなみに、陳陶は晩唐の詩人だが、日本語の紹介記事で適当なものが見つからない。しかし漢字というのは便利なもので眺めていると何となく意味が解るような気がするものだ。まさに何となくではあるけれど。

陈陶 [ 唐代 ]
陈陶[唐](约公元八四一年前后在世)字嵩伯,自号三教布衣,鄱阳剑浦人。(全唐诗作岭南人,此从唐才子传)生卒年及生平均不详,约唐武宗会昌初前后在世。工诗,以平淡见称。屡举进士不第,遂隐居不仕,自称三教布衣。(公元八五三年左右)避乱入洪州西山。咸通中,(公元八六六年左右)严撰节度江西,尝往山中,每谈辄竟日。尝遣妓建花往侍,陶笑而不答。莲花赋诗求去,有“处士不生巫峡梦,虚劳云雨下阳台”之句。临别,陶亦赋诗以送。相传他后来白日升天而去。(全唐诗作“大中时,游学长安。南唐升元中,隐洪州西山。后不知所终”。升元中距大中中几九十年。陶遣莲花妓事,在咸通中,赠诗已有“老去风情薄似云”句,那得至升元中还在?可知全唐诗不确)陶著有文录十卷,《新唐书艺文志》传于世。《全唐诗》卷七百四十五“陈陶”传作“岭南)人”。诗人早年游学长安,善天文历象,尤工诗。举进士不第,遂恣游名山。唐宣宋大中时,隐居洪州西山,后不知所终。有诗十卷,已散佚,后人辑有《陈嵩伯诗集》一卷。其《陇西行》四首之二:“誓扫匈奴不顾身,五千貂锦丧胡尘。可怜无定河边骨,犹是春闺梦里人。”把残酷现实与少妇美梦交替在一起,造成强烈的艺术效果,至今仍脍炙人口。然而,鲜为人知的是,他漫游浙江、福建、广东时,曾路过今闽东地区,并留下了《旅次铜山途中先寄温州韩使君》等诗。

https://mshici.txcx.com/shiren-04ez.html

 ちなみにDeepLをあててみると、結構おかしい。

陳陶[唐代]陳陶[唐代](西暦841年頃生存)は、鄱陽の建浦出身で、字は松坡、自称は三貂餘。 (唐詩はすべて嶺南人として書かれた。これは『唐才伝』による。)生没年や平均生死数は不明で、唐の武宗皇帝の恵昌の初め頃に生きた。 非常に平易な詩で知られる。 晋の位を得られず、隠棲して三教の学者を名乗った。 (西暦853年頃、杭州の西山に隠棲。 西安トン、(西暦866年かそこら)ヤンは江西省のセクションを書いた、山に味わった、すべての話は常に日後。 奉仕する売春婦Jianhuaを送信しようとすると、タオは微笑んで答えなかった。 行くために蓮の詩は、 "処女は武侠の夢、バルコニーの下で無駄な労働雲と雨を出産しない "行があります。 タオはまた、見送るために詩を書いた。 後に白日昇天したと言われている。 (全唐詩:「大中にいた時、長安に旅した。 南唐の申元中頃、宏州の西山に隠れた。 その後、どこに行き着いたかは知らない。 沈元から大中までの期間は数90年であった。 タオは蓮の売春婦のことを送った、西安トンで、詩はまだそこに盛元へのこと、"古いスタイル雲のように薄い "文されている? (全唐詩は正確でないことを知ることができる)タオは10巻の文学を書いた、"新唐書芸術と文学 "は世界で合格した。 陳濤の名前は『全唐詩』745巻に「嶺南」とあり、詩人の初期は長安を旅していた。 幼い頃、詩人は長安を旅し、天文学や暦学に優れ、特に詩作に長けていた。 学士号取得に失敗した後は、名山を自由に旅した。 唐玄宋大中の時代、彼は宏州の西山に隠棲したが、その後、どこに行き着いたかはわからない。 彼の詩集は10巻あったが、失われ、後に陳松伯詩集の1巻を編集した。 彼の四篇の詩のうちの二篇目『龍渓行』には、「私は身の上を顧みず雄奴を掃討することを誓い、五千枚のセーブルの錦は胡の塵に消えた。 武鼎江のほとりで、まだ春の寝室で夢を見ている哀れな骨。" 残酷な現実と若い女性の夢を交互に描くことで、強い芸術的効果を生み出し、今日でも人気がある。 しかし、あまり知られていないのは、浙江、福建、広東を旅した際、福建東部一帯を通過し、「温州の使節韓を通山に送る」などの詩を残していることだ。



【余談】

 震災前のことだが、芥川竜之介君と私とは共に、横須賀の海軍機関学校に教師をしていた。学校の運動場がすぐ海に続いていたので、隙な時間にはよくその海岸を散歩した。
 或るうち晴れた日の午後、私はまた芥川と一緒に海岸を歩いていた。よく凪いだ海が干潮になって、岩の片面に牡蠣みたいな貝類が曝し出されている。
「君、」と彼は突然私の方を見返った、「牡蠣が沢山あるよ。この牡蠣という奴は、取立ての海水で洗って食べるのが一番うまいんだ。食ってみようじゃないか。」
 そこで私達は、手頃な石を拾って、岩に密着してる貝殼を叩き破って、中のぶよぶよした肉を取出し初めた。所が、色といい格好といい、どうも本当の牡蠣であるかどうか疑わしい。それでも彼は二つ三つ海水で洗ってすすり込んだ。私はうまくとれなかったので、一つ二つ口に含んだがすぐに吐き出してしまった。
 それから暫くして、教官室の方に帰っていく途中、彼はふいに顔を渋めて唾をぺっぺっと吐き出した。
「どうもさっきのは、牡蠣ではなかったかも知れないよ。胸が悪くなってきた。」
 私は黙って彼のひょろ長い姿を眺めた。そして彼が食ったのが果して本当の牡蠣だったかどうか、いくら考えても分らなかった。

(豊島与志雄『交遊断片』)

 芥川もたまには無茶をする。

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