三島由紀夫の『美しい星』をどう読むか⑨ 兼 『決定版三島由紀夫全集』に校正ミスあり③「ル」はいらない
第九章、羽黒と重一郎は延々と「哲学的」議論を交わす。と言っても屁理屈合戦で、ルールがよく分からない。
それにしても精々手紙を書くくらいしか現実的な手立てを持たない者同士が、ただ自分たちは宇宙人なのだという信念だけを頼りに、人類滅亡と人類救済の是非について討論するという行為そのものが、現代の若者からすれば「中二病」と笑われかねないものだけに、それを見越した三島由紀夫の筆はより深刻さを装い、あくまでもこれは御遊びではなく哲学なのだと強弁したいようだ。
なるほど、前半はそうかもしれない。われわれはミサイルが日本の国土に着弾しないだけでは満足できず、そもそもミサイルが日本に向けて発射されない平和を求めている。
しかし後半が解らない。「平和の本質に不満」?
数秒間考える。「平和の本質に不満」? 坐りの好い言葉が見当たらない。三島の回答を見よう。
この「海から漁られた魚」ではぐらかしながら、「腐敗の足の早さ」とまとめるところがいやらしい。魚でも新鮮ならいいが、腐るので、なら金属のように腐らない平和が願われている訳だ。
これはまあ、そういうことなのだろう。
ウクライナとロシアの戦争に巻き込まれなければ、こんなことにならなかったのにと後悔している現在、確かにあれは事前の平和だったなと思いだす。あるいは今もまだ日本人の中には日本は平和だと信じている者もいるかもしれないが、その人の信じている平和は「甚だ不透明で甚だ贋物くさい」ものだ。
これから二十数年かけて、中国は台湾、沖縄、九州、西日本、東海までを領土とし、東京の一部を「日本人自治区」とする計画を立てていると噂されている。
現実には舞浜のタワーマンションや都内の戸建てを中国人が買占め、東京に中国の大学の分校が進出してきている。石原慎太郎も都知事時代に「人口の浸透圧には勝てない」と語っていた。川口ばかりではなく、ゆっくりとした領土化は進んでいるのだ。
こんな贋物くさい、ほぼ偽物の平和の裡にあるにもかかわらず、三島の理屈は頭に入ってこない。
ところが重一郎の一億分の一の想像力もない人間には全的破滅の幻を描くことが出来ないのだという。六十年後のわれわれは、けしてそういうことではないのだ、と反論してもいいだろう。冷戦以降の核開発は、それを実際に使用することよりも国際間でのステータス確保のための手段として行われてきた。戦争は核兵器を用いずに繰り返し行われていて、中国のような強かな国は兵器さえ用いずに国土を拡大しようとしている。最近は余り報道されなくなったが、ウイグル自治区では将来日本人自治区で行われるであろう様なことがなされているようだ。
今、平和が嘘くさいのは明日にも水爆が撃ち込まれるかもしれないからではなく、現に日本語が全く話せない外国人が働きもせず、ごく普通に日本で暮らしているからだ。
というのも「銀だこ」の88円セールの日、行列に並んでいると私の真後ろにみるからに中国人というおじさんがいて、ふらふらと歩き回っている。スマホを使いながら明らかに列から離れて何かを眺めたり、また列に戻ってと変な動きをしている。店員に一言も日本語を交えずに完全な中国語で何か話していたと思ったら、年もまばらな男女数人がやってきて、そのおじさんの後ろに並び完全な中国語で話し始めた。まだ若い人もいたが、昼間っから家族総出で「銀だこ」に並ぶというのはやはり何か引っかかる。少なくとも働いてはいないのだろう。それにしてもどうして日本語を片言でも話さないのかとひどく気になった。昨日や今日、日本に来たわけでもなかろうに、もしや生活保護でも貰っているのではなかろうなと勘繰った。
水爆よりもこんな中国人家族の方が手っ取り早く日本を消せる。現にこの中国人家族の立っている場所はもう日本であって日本ではない。池袋の本格中華の店は客も従業員も中国・台湾人で、中には日本人お断りの店もある。三島由紀夫が見たものがテレビや新聞の水爆のニュースでなくて、日本語の話せない中国人家族であったなら、もう少し現実的な議論になったのではなかろうか。
ところでその不毛な議論の中でふと「広大な社長室で極薄型のオーデマル・ピゲと睨めくらしながらぢりぢりと客を待つ社長」という文句が出てくる。
これはAudemars Piguet つまり、オーデマピゲのことであろう。
これは英語ではオデマースピゲに聞こえ、フランス語ではオデマピゲに聞こえる。marsの「rs」が「あっは~ん」のように鼻に息が抜けた感じで「ル」には聞こえない。仮にドイツ語読みをするとアウデマルスピグエットとでもなるのだろうか。
いずれにしてもブランドなので公式に習って「オーデマピゲ」に改めるのが正解であろう。
これも今の新人作家だと削られるところだ。意味が完全に解らないわけではないが、毒を吐こうとしてやり過ぎてしまっている。
広辞苑と日本国語大辞典以外は「気取ってすぼめた口つき」という解釈を取らない。このおちょぼ口に盛んに気取りを見出したのが太宰治である。
谷崎潤一郎や北原白秋の「おちょぼ口」は女の人の小さな口の事で厭味はない。かならず「おちょぼ口」に厭味をつけるのが太宰治で、三島由紀夫のこの「おちよぼ口」はほぼ太宰治の語彙がうつったと言ってもよいだろう。
これもいけない。毒を吐こうとして、ナチの特殊性を薄めている。強制収容所と水爆は同じものではない。しかしこの時点で単なる罵倒なので、言葉の一つ一つは表層的な意味しか持たない。
それを言うなら「放射能」ではなくて「放射性物質」だろうと文句を言っても仕方ない。
これはただの罵倒なのだから。罵倒はなんのロジックも持たずとも相手を傷つける。何ら現実的な手立てももたない人間も、相手を罵倒することはできる。
結局「凌遅」のようなまどろっこしい方法ではなく人類を水爆によって滅亡させるという羽黒たち三人に宇宙の裏切り者と重一郎が散々罵倒されて九章は終わる。
さて、重一郎はどう反撃するのか?
それはまだ誰も知らない。
何故なら、ここまでしか読んでいないからだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?