芥川龍之介の『点心』をどう読むか⑧ 文意が捻じれている
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※アルベルト・ブレスト・ガナ
漱石のようにその作品に於いて英吉利臭さというものをほとんど見せない芥川だが(漱石作品ではしばしば地の文が翻訳調となる。)、こうしたものを読む限り、広く海外文学に触れてはいたようだ。
しかしこの話は細かく見ると少し解らないところがあって、
①「イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外ほかに、英吉利語訳のイバネスは何処どこを探しても見当らなかつた。)」というのは、アメリカで出版された英吉利語訳のイバネスが日本に輸入されて名前が知れ始めた、という意味であり、
②「以前文壇の一角に、愛蘭土文学が持て囃されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ」とあるのは、アメリカで出版された英語のアイルランド文学が日本に輸入されて日本でもアイルランド文学が注目されるようになったという意味である、
と言っているのであれば、
③「イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙小説が沢山並べてあつた」というのはアメリカで出版された英吉利語訳のイバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙小説が沢山並べてあつた、
ので、
④「向う河岸の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ」とはアメリカで出版された英吉利語訳のパピニなぞの伊太利文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。
という意味だとして、これはつまり、
⑤「ホイツトマン以後、芸術的に荒蕪な亜米利加は、他国に天才を求めるからというのは、アメリカでは英吉利語訳の翻訳ものがはやる。
という意味としては解せるものの、
⑥「所が英吉利なり亜米利加なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。」
ここが解らない。英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多いので日本では流行らないのであれば、①~④はない。ここはあくまでも「英吉利語訳の大陸文学こそが亜米利加向きでもあり、かつ日本向きでもある」でなければ意味が通らないのではなかろうか。
仮に「然るに」を逆説の「にもかかわらずに」「そうであるにも」の意味ではなく「さて」という程度の意味にするなら、……いや、そう甘やかしてもいけないだろう。
ここはやはり文意が捻じれていまいか?
無論仏蘭西ドイツ露西亜を論じない点で、この話題は少しひねってあるのだ。ニーチェも英語版で読まれているという説明の方が解りやすくないだろうか。
この話は一旦簡単に終わるが、後で色々と結びついてくる。
とりあえずは「世界文学が日本においては英語訳として入ってくる」という一般論として押さえておいてもらいたい。そういう前振りになっている。
ちなみに三四郎はラテン語は読めなかった?
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