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川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか⑤ そんなときはこないのに 

 もし自分ならなどとは書かない方がいいだろう。もし自分ならとなんでも自分の話にしてしまわなくてもいい。これはあくまでも前世紀のバブル期の中学生の「僕」の話で、私は「僕」ではない。私は私以外にはなることが出来ないし、『ヘヴン』はただの小説で、私の人生とは何のかかわりもない。

 それは壮絶な暴力の寸前、義理の叔母の葬式やら体調不良やらで三日間学校を休んで机の中にゴミやら生理用品などが詰め込まれた十月のはじめ、二宮に投げかけられた問いかけだった。

「小説って、基本的に人間の人生の色々について書かれているんでしょ。でも俺にもおまえにもつくりものじゃない手持ちの人生がすでにあるっていうのに、そのうえになんでわざわざよそからつくりものを持ってきていまさらそんなものをうわ乗せしなきゃならないんだ?」

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 このロジックが馬鹿々々しいのは、彼らが虚構の中にあり「つくりもの」なのだからではない。この後起こる凄まじい暴行シーンを読みながら、自分なら一人ずつ監禁して、福岡一家四人殺人事件で暗証番号を聞き出すときにやったような、いやもっと長いあいだ相手を苦しめる最適な方法を調べ上げて、完璧な反撃をしてしまうに違うまい、と思ってしまったからだ。

 二宮のアドバイスは何の忠告にもならなかった。人間の脳はフィクションと現実をうまく区別できないものだし、「つくりものじゃない手持ちの人生」などそもそも存在しないのだ。

 針金で窮屈な姿勢に縛り上げ、カブトムシだけを食べさせる。両目はアロンアルファでふさぎ、オーディブルで島田雅彦の小説を読み聞かせる。そんな残酷な報復を思い浮かべることなしにリンチの場面を読み進みながら、ようやく二宮の前置きを思いだす。

 二宮の認識論は余りにも幼稚だ。『なぜ世界は存在しないのか』のマルクス・ガブリエルならあまりにも古典的実在論の枠組みにとらわれ過ぎていると批判するだろう。永井均なら「俺にもおまえにもつくりものじゃない手持ちの人生がすでにある」と言っている時点で間違っているというだろう。しかし我々が何故小説を読むのかという問いかけとしては成立している。

 村上春樹は他人の靴を履いてみることだと書いていたような気がする。しかし靴が小さければはけない。

 我々は何故小説を読むのか。

 たとえば「僕」が私とは違うからではなかろうか。

 それは理由の一つで全部ではない。

 ただ「僕」が激しい怒りを見せるでもなく、大人しく自分の血を掃除し、親にも医者にも教師にも自転車にぶつかったと嘘を言い、徹底的にやり過ごそうとしている様子に対して、思わず「自分なら」と虚構の中に参加しようとしていた自分のピュアさ加減に今更ながら呆れてしまったのは事実である。今年で百歳なる小学八年生が中学生と喧嘩しようとしていたのである。

 「あの子たちにも、いつかわかるときはが來る」

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 コジマの理想はやはり今世紀では通用しないものだ。あえてそう言わせているのだろう。現実的にはそんなときはこない。

 そんなことはもう2009年の時点で明らかだったはずだ。

 では川上未映子はあり得ない理想の世界を描こうとしているのか。それとも現実の残酷さを突きつけるのか。

 それはまだ誰にも解らない。まだ五章までしか読んでいないからだ。

【余談】

 昨日ドン・キホーテで、床に落ちいていた商品を棚のフックに戻してあげていたお客さん、(三十代男性)がいた。

 そういえば昔はそういうこと、無駄な親切をかならずやっていたが、今は滅多にそう言うことをしなくなったなと気がついた。

 道におっさんがよく落ちているからだろうか。



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