芥川龍之介の『囈語』をどう読むか① もう言い訳は出来まい
芥川龍之介の『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』はシュールな作品だ。しかしただシュールでは片付けられない。
あるいはシュールに退廃的なものが加わったようなこの小品、『囈語』などは『文章と言葉と』で宣言されたアポロ主義とは凡そ真逆の、しかしディオニュソス的とも言い難い文章である。
うわごとにしては言語は明瞭ながら意味は確かに曖昧である。このうち一見当たり前に思えるものは唯一「僕の舌や口腔は時々熱の出る度に羊歯類を一ぱいに生やすのです」というところだが、すぐに羊歯類ではなく蘚苔類だろうと思い直すところだ。舌苔はあっても舌羊歯はない。
そして鮫の卵に引っかかる。確かに鮫には胎生と卵生がある。しかし鮫の卵というのはいわゆる卵型ではなく、実に奇妙な形をしたものなのだ。
おやこれは、芥川、知性で曖昧を拵えてやしないかと疑われるところだ。苔を羊歯に捻ったのは何でもない言葉遊びだが、鮫の卵と書いたのは何かの図鑑でも見ないとあり得ないことだ。普通そんなものは目にしないだろう。そして目にする市内の話で言えば、蘇鉄は江戸っ子が見かけるものではない。蘇鉄の自生北限は宮崎県なのだ。一生蘇鉄を目にすることのない人が今でもたくさんいるだろう。
コロンブスの鯨云々に関しては典拠が解らない。
どうやら芥川は一つの話にきっちり一つずつ生き物を持ち出す事に決めていたらしい。そんな文章からは胃や舌や腹の具合が悪く憂鬱な話者の姿がはっきり見えてくる。頭蓋骨の中に虱が侵入する筈もないのに、一々書いていることは嘘なのに、こんなにはっきり「具合が悪いのだ」という主張が伝わってくる文章はあるまい。
冒頭で述べたようにこの文章は断じてアポロ主義とは認めがたい。しかしけして頭の可笑しくなった人の文章ではない。頭の可笑しくなった人は鮫ではなく鯨の卵でも産むものだ。下痢と蘇鉄の取り合わせは解剖台の上のミシンとこうもり傘、額に生える双六のような開きだ。
詩人を自認する芥川の小さなプライドがここにも見える。
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