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芥川龍之介の『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』をどう読むか① 慈姑の旬は春ではない

 芥川は『文章と言葉と』において曖昧ではないハツキリした文章を書きたいと書いている。三島由紀夫も認める通り、いや三島由紀夫が認めなくても構わないが、「潔癖に作品の小宇宙の完成を心がけた」という三島由紀夫の評価がぴったりな芥川にも曖昧な作品というものはある。

 例えば『馬の脚』が視覚化に耐えられないシュールな作品であることは誰しも認めるところであろうが、有名な『杜子春』なども良く読むと頭のおかしい人が書いたとしか思えない絵面なのだ。

 


 しかし最も曖昧なのはこの『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』ではなかろうか。いつも「カントの論文に崇られたんだね。」って何て作品の中の台詞だっけ? と題名が思い出せないのは、この作品の題名が長すぎる所為だ。

 顔馴染の道具屋を覗いて見る。正面の紅木の棚の上に虫明けらしい徳利が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前の徳利の口もちよいと接吻位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色の柳の枝垂れた下にやはり藍色の人が一人、莫迦に長い釣竿を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗きこんで見たら、金沢にゐる室生犀星!

(芥川龍之介『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』)

 ※虫明は岡山の焼き物

 虫明、古備前と岡山を意識させておいて、金沢にゐる室生犀星!とやるから曖昧なのではなくて、「藍色の柳の枝垂れた下にやはり藍色の人が一人、莫迦に長い釣竿を伸ばしてゐる」というのは「鼻の先に染めつけの皿が一枚」あるその皿に描かれた絵のことだというのが曖昧なのだ。まさか室生犀星が染付皿の図案になろうとは思わないので、薬物検査でもやった方がいい感じがするところだ。

又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七宝の青に似てゐる。あの慈姑を買はうかしら。嘘をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にも嘘をつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主も気楽さうに山雀の籠の中に坐つてゐる!

(芥川龍之介『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』)

 慈姑の旬は11月から1月だ。

 勿論「御亭主も気楽さうに山雀の籠の中に坐つてゐる!」がシュールなのだが、慈姑が何を狙っているのか曖昧だ。旬ではないとはいえ、春に慈姑が全くないというわけではない。いや、殆どないのだが、嘘とまでとは言えないから曖昧だ。

「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」
「カントの論文に崇られたんだね。」
 後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。

(芥川龍之介『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』)

 最初は矢張りここが引っかかる。そしてその通りだと思う。実際

片桐さんって元々なんの人?


 みたいなことはよくある。

 しかしよくよく考えてみるとおかしいのはあなたの方じゃないか。

 この辺そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤も崖側の竹藪は不相変黄ばんだままなのだが………おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己の顔もみんな目玉の中に映つてゐる。馬のあとからはモンジロ蝶。
「生ミタテ玉子アリマス。」
 アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入リマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。

(芥川龍之介『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』)

  モンジロ蝶と決して言わないわけではない。


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 しかし、「生ミタテ玉子アリマス。」とは誰の言葉か。馬子が玉子を売り歩いているのか。それともモンジロ蝶が言ったのか。

 全体としてシュールなぼんやりとした、そして牧歌的な詩的散文を狙ったものではあろうが、その為にわざと曖昧に書いている。はっきりとは書いていない。

 そんな自分がいたことを忘れているなら『文章と言葉と』の「僕」の方が少しどうかしている。

 ハヤシライスとカレーうどんの間にトルコライスを見出すカレーパンのように不自然で、大トロと赤身の間にヅケを見出す鉄火巻のようにわざとらしい。カレーライスト中トロの立場がない。



新聞集成明治編年史 第八卷

電光感冒。へー。


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