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芥川龍之介の『念仁波念遠入礼帖』をどう読むか② 「才人」とは何か

(二)才人を女官の名とするも聞えたり。才人の官、晉の武帝に創まり、宋時に至つて尚之を沿用す。然れども才子を才人と称しても差支へなきは勿論なり。辞源にも「有才之人曰才人。猶言才子」とあるを見て知るべし。燕雀生は必しも才人と言つてはならぬと言はず、しかしならぬと言はぬうちにもならぬらしき口吻あれば、下問を仰ぐこと上の如し。

(芥川龍之介『念仁波念遠入礼帖』)

さい‐じん【才人】
①才知のすぐれた人。才能のある人。
②漢詩文にすぐれた人。源氏物語少女「殿にも文作り繁く、博士・―ども所得たり」
③昔、中国で歌舞を以て宮仕えした女官。

広辞苑

さい-じん [0] 【才人】
(1)才知のある人。頭の鋭い人。才子。
(2)抜け目のない人。
(3)学芸にすぐれている人。
(4)漢詩文の才能のある人。「殿にも文つくり繁く,博士・―ども,ところ得たり/源氏(乙女)」

大辞林

 この話は「春台」と繋がっているのであろうか。

 まず一口に「才人」といってもそれを官職と結びつける場合はその時代時代によって、あるいは時の政治体制によって意味合いが異なるというのが大前提であろう。戦前と戦後の天皇の意味合いが異なるようなものだ。その上で「才人の官」が「宮人」であるとするならば、それは明代からであり、「晉の武帝に創まり、宋時に至つて尚之を沿用す」とするのはやや古すぎるように思えるが、芥川には何か根拠があるのだろう。

 一方三省堂の『全訳 漢辞海』によれば「才人」について「後宮の女官の名称。皇后に次ぐ妃に用いる」とあり、典拠が『史記』の「劉長伝」とされている。

 いや、「扁鵲倉公列傳」に出てくる。

 こうなると芥川の言う「晉の武帝に創まり」という起源よりさらに古い話になる。ここは三省堂の方が正しいような気がしてしまうが、さてどうなのだろう。例えばしばしば「才人」に読み替えられる「宮娥」は隋代にも見られる。ただし数千人とあるのでこの時代の「宮娥」は「才人」とは別ものであろう。


 これはむしろ『史記』の「太倉公伝」に現れる「官婢」にちかいものなのではなかろうか。

 ところで「宋時に至つて尚之を沿用す」がなんともわからない。

 どちらだろう? 宋は二つある。

 ところで「才人」として日本で一番有名なのはなんといっても則天武后であろう。知らない知らないと言ってもどこかで名前くらい聞いたことのある存在である筈だ。

 二つの宋の間の唐の時代に武則天(ぶそくてん)、則天武后(そくてんぶこう)が貞観11年(637年)、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった、とされているから420年 - 479年ではなく960年 - 1279年となるのだろうか。

 確かに明(1368年 - 1644年)では「才人」が消えている。

 この「才人」が陳陶の「艶妝」と繋がるようだと、先日挙げた陳陶が晩唐の詩人なので勘定が合う。

 しかし問題は才子が「春臺艶妝蓮一枝」の「艶妝」たりうるかということであろうか。これが「才人」ならしっくり嵌る。(才子佳人の「佳人」でも嵌る。しかし「才子」は「艶妝」たりえないし、「迎春侍宴瑶華池、遊龍七盤嬌欲飛」というところ、最後を漢詩でよくある「嬌欲〇」、「宮鶯嬌欲醉」(李白)、の意味に解すと「嬌として飛ばんと欲す」と訓ずると、その意味は、春を迎えた歓待宴では池の花がゆれている、七盤に龍が遊びなまめかしく飛ぼうとしている、となるだろうか。こっちの方は少なくとも才子ではない。)

  いずれにせよ芥川と私では「春台」として見ているものが違うので、「春台」に「才子」あるべきやという議論にすらならない。

 それにしても「後宮」の説明は、芥川の「晉の武帝に創まり、宋時に至つて尚之を沿用す」という説明とぴたりと重なる。

 芥川はどれだけ博識なんだ。それともウィキペディアの記事は芥川が編集したのか。


『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。その特長ゆえに、秦の宰相呂不韋に見出された。

(ウィキペディア「嫪毐」より)

 こんなことも知っていただろうか。


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