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創作世界の発見

訂正を肯んじえない読み誤り


大正五年に書かれた夏目漱石の『明暗』では、主人公・津田由雄の元恋人らしき女・清子が昔飛行機に乗ったことになっている。

日本で民間の飛行機利用が始まるのは第二次世界大戦後のことであり、これは私が確認できる史実とはあからさまに矛盾する。大正五年以前に清子が飛行機に乗るなど、けしてありえないことなのだ。

当時の飛行機は旅客機ではなく曲芸飛行機であり、おそらくまだ将来的にも民間旅客機というものが利用できるとは到底想像できない危険なものだった。

従って現実の常識からすれば清子が飛行機に乗る筈もない。

一応そういう理屈にはなる。

ところが『明暗』にはやはり少なくない時代の反映があり、これを遠い未来を空想して描いた話だとして認めることは難しい。作品の基調から、あるいはそれ以外の仄めかしがないことから、これを空想科学小説的奇抜な企てだと捉えることは難しいのだ。

上手な逃げ道が見つからない。

この矛盾を押さえつけるために、「飛行機」が何かの隠語か比喩であるか、もしくは書かれていない結末で『家畜人ヤプー』のようなタイムトラベルが起るのではないかと、これまで私は随分乱暴に、見当違いな解釈をしていた。夏目漱石は「プログラム」という言葉を物理的な西洋演劇の演題印刷物としてではないものとして最初に用いた人でもある。どうも漱石の「プログラム」という言葉の使い方は現代的すぎる。また漱石は飛行機にも大変に興味があり、何度か見物に出かけている。…だからもう一つ仕掛けがあり、見落としている感じがする。

ただし正解は見つからない。何故夏目漱石は清子を飛行機に乗せたのか、それがどういう意味を持つ記述なのか…。

仕方なく私は、清子が飛行機に乗ったかのように書かれている矛盾を不思議がり、面白がることにした。そうして私は『明暗』をさしたる悪意なく虚しく涛してきたのではなかろうか。

不思議がり、面白がるという態度は『明暗』を虚構として楽しむ態度ではある。虚構は現実ではないが現実の理屈が通用する世界である。そうして『明暗』が創作、つまりなんでもありの世界であることを本質的に認めようともせず、そんな必要はないと頑なに信じていたのではなかっただろうか。

なんでもありの世界であれば清子がスマホを操作しても何の不思議もないのだ。勿論現実的に考えれば、漱石がスマホを想像すること自体が極めて難しいのではないかということにはなろう。固定電話が無線通信に取って代わられる未来は何とか想像できたかもしれない。そこから電話がカメラになり、ゲーム機になる未来を考えることは、難しいことは難しいが、絶対に不可能だとまでは断言できない。

実際に漱石は平成の未来に現れたある仕組みを予見している。

それは『永日小品』に登場する「五色の金」だ。「赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦の破片同様まるで幅が利かないようにして、融通の制限をつけるのさ」と初めて読んだ昭和の時代には、それはなんとも珍妙で、どういう効果があるのか分からないアイデアであり、まだどこにも存在しないものだった。昭和の時代、図書券もビール券も神通力を持った現金で買うことができた。

神通力を持った現金に誰も文句を言わなかった。

しかし今、パズル&ドラゴン、白猫プロジェクト、モンスター・ストライクなどのスマホゲームの中には「五色の金」が実在する。課金では手に入らず、ある役割にしか使うことの出来ないカラフルなアイテム。それはカラフルに色分けされるだけでは足りず、様々にデザインされ融通の制限された「金」だ。万能の金だけが幅を利かせる仕組みではゲームの世界が単調になり、バランスを崩してしまうことから工夫されたシステムだ。

それはまだスマホゲームの中にしか成功していないシステムではあるが、少なくともゲームの面白さを保つ仕掛けとしてうまく機能している。そしてそのシステムが有効なものであることは、実際にゲームをプレイしてみればはっきり解る。

国家の保証のない暗号通貨が急騰している現在、新しい「金」が求められていることだけは間違いない。それが現実に万能の金から独立できるかどうか、我々はまだ知らない。ただ夏目漱石はそういうシステムがあり得るのではないかとさらりと予見した。

スマホゲームを体験した後で読むと「五色の金」理論の先見性がしみじみと解る。逆に現金の神通力の危なっかしさがはっきり解る。

つまり漱石はスマホどころか、スマホゲームのシステムを予見したと言ってよいのかもしれないのだ。

あるいは夏目漱石の『坊ちゃん』では、海辺の町である筈の延岡が、かなりの山奥にあると書かれている。やや大げさに書かれているので、恐らくここには漱石の明確な意図がある。だがその意図はさして明確ではなく、延岡が山奥に描かれていることに対して真剣な議論もない。そのことについて私は今まで、これは不思議だ、と思い込み、これは謎だと考えてきた。しかしそのようにして作品の世界を現実に引き寄せて読もうとする態度そのものが根本から間違ってはいなかっただろうか。

これまで私は何のためらいもなく詩や小説、和歌や俳句といった文芸作品、所謂創作作品を「虚構」という枠組みに押し込めることでとんでもない誤解をしてきたのではないかと気が付いたのはつい三日前のことだ。

三日前、三浦俊彦の『虚構世界の存在論』を読んでいて、その冒頭で宮沢賢治の作品が読み違えられたまま流布されており、その読み誤りが作品全体との整合性を保っているがためにもはや訂正もされないという事例を知った。

それは『虚構世界の存在論』の作中では単なる作品の同一性を論じるきっかけの一つだった。ただそうした事実を初めて知った私にはそういう冷静な受け止めが出来なかった。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」が「ヒドリ(日給払い)ノトキハ」の誤りだと知らされたとき、私は今までの自分の読書なり解釈なりの体験に小さな裂け目のようなものが出来るのを感じた。

日照りと日取りは違う。

違うが訂正されない。

これはまさしく「訂正を肯んじえない読み誤り」ではないか。

四書五経にも聖書にも出典が怪しいか、またはかなりの確率で後世に書き加えられた可能性がある箇所がある。(と言われる)。『続日本紀』もそうしたものだと言われる。しかしそうした作品は訂正に足るべき根拠が見つからないから放置されているのに過ぎないのであって、原作が見つかってなお訂正されないという宮沢賢治の詩の話とは根本的に違う。

この問題は単に保守性というような認知のバイアス問題に矮小化することはできない。誰かは合理的に考えて、全体のバランスから、原文に訂正することを拒んだのであり、著作権を無視し、作者の特権を排除していることになるからだ。

またこれはその誰が良いとか悪いというような種類の話でもない。ここでは結果として訂正を肯んじ得ない読み誤りといういささか非論理的なものが現れ、現実を侵食したのだと認めてよいだろう。重ねてここに原作の忘却という判断があることを認めても良いだろう。作者も読者も作品も死に、その代わりに「訂正を肯んじえない読み誤り」という荒唐無稽な概念が現れたのだ。

それは厳密な物理法則に支配された現実世界に対して、虚構ではあるが可能な世界の実在を論ずる『虚構世界の実在論』からはみ出し、非論理的ではあるが現実を侵食するパラレルな文学として、自己同一性さえ拒否されたバグにも思えなくはない。しかし仮に現実的に「日取り」が忘れ去られた世界のみを想定すると、嘘だが本当という作品が固定される。むしろ積極的に「日取り」を探し求めるというイデオロギーなしに「日取り」が見つかるという状況ではないのだから、訂正を肯んじ得ない読み誤りは、非論理的であれ、少なくともむしろ自然ではあるのだ。

そしてあらためて宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を読み直してみれば、「日取り」という原文がいかにも「ぎろり」とした、虚を突く、不思議な言葉であることに気が付く。全体のバランスで考えると確かに浮いていて、これをそのまま受け入れて仕舞ったらと仮定すると、作品が全く変わったものに感じられる。いささか非論理的で、もしそういう作品として流通していたとしたら、そこが「謎」になってしまうようにさえ思える。

そして自分が適切な情報を無視しようとする認知のバイアスに傾いていることにも気が付いた。また本来の「日取り」という表現を容れた時、「ぎろり」とした感じを受け入れた時、自分が過去、謎や不思議として理解を拒んでいた文学の非論理的なもろもろが早まった一般化の中に零れ落ちてくるのを感じた。偏りのある標本から間違った類推を行い、因果関係を逆転させて論点を先取りさせた。

しかしもしもこのいささか奇妙な「雨ニモマケズ」を認めるとするならば、いくつもの「わけがわからないこと」と和解が可能ではないかと思えた。

誰かがこの「ぎろり」は創作世界の非論理性のことだと一般化してしまえば、ここまで私は何一つ意味のあることを書いていないことになるかもしれない。そもそも創作世界は(虎バターのように)非論理的でもあり得て、どんな「ぎろり」も含みうるものだ。そのくらいのことは宮沢賢治を持ち出すまでもなく、大抵の人が認めている。勿論それが創作世界だけの非論理性の話であればこれ以上何もない。

ただ私の言う「ぎろり」は創作世界の内側だけの話ではなく、現実にはみ出した現実との境界線を持たない創作世界の非論理性なのである。つまりバターの元材料名に「虎」と書かれている現実がありうるのではないかということなのだ。現実が作品の非論理性から目を背けるのではなく、その非論理性にあっけなく浸食されてしまうという非論理的な事象が一つ目の前に現れたのだ。

仮にそういう現実があるとして、それが非論理的であれ自然なことであるとしたら、私がいままで抱いてきた疑問に、焼けバチのような一方的な答えが見つかることになってしまう。

全能の逆説が逆説ですらない世界が創作世界なのではないかと気が付いたのだ。

日照りであり日取りであるという矛盾を認めてしまえば「なんでもあり」を認めることになる。

そう気が付いてみると、そんなことはさらにそもそも当たり前だと気が付く。全能の逆説の中では神は四角い円を想像できるかと問われるが、創作の世界ではそうしたものが易々と創造され得る。視覚化は出来ないが文字としては書き得るのだ。

村上春樹の『クリーム』は全能の逆説を破り、中心もなく、円周もない円という「ややこしいもの」について考えさせようとする。そう気が付いてみれば『ウィズ・ザ・ビートルズ』の英国版のレコードを1965年の日本で持っている少女というのもなかなか存在しづらいものだし、『ヤクルトスワローズ詩集』に現れる黒ビールの売り子というのも調べた限りここ数年は実在しないものだ。品川猿などそもそも存在しない。(その後、実際に品川で猿の目撃例があったが)。なんでもありの世界を自然に描いてきた。

だが不思議なことに私は村上春樹のなんでもありの世界に親しみながら、夏目漱石の飛行機をただ不思議がっていた。

以前の私は、つまり宮沢賢治の詩の正体に気がつく前の私は、創作作品の内部には論理的な部分と非論理的な部分はあるものの、概ね虚構であり、所詮は可能世界であり、味わいやユーモア、幻想性や現実に対する突き崩しとしての非論理性があるのであり、創作世界の外側には認知のバイアスの影響は受けるもののある程度論理的な世界が実在すると考えていた。詩や和歌の中には非論理的な言葉遊びがあることは認めつつも、どこかで現実の論理的な世界を信じて遊んでいるのだと思い込んでいた。

そしてそのずさんな発見的仮定に基づいていくつもの謎を発見してきた。

しかしそうではないのなら、つまり創作世界の外側にもまた創作世界の内側のような世界が広がっているのだとしたら、いくつものことがすんなり腑に落ちる。そのための仮定は、創作世界は本当に何の制限もない「なんでもあり」の世界である、というものである。これは真矛盾主義ではない。「なんでもあり」の世界であれば、そもそも矛盾が成立しないのだ。その代わり何事も真ではない。つまりフィクションとなる。

また改めてまったく意味のない話に戻ったようだが実はそうではない。

フィクションが単なる仮構世界ではなく、なんでもありの創作世界なのだという事実が百年前から堂々と示されていたことは、冒頭に示した夏目漱石作品の自在ぶりが示すとおりである。

なんでもありの世界であれば延岡が山の中にあっても良いし、猿だらけであっても不思議ではない。

なんでもありの世界では延岡が空中に浮いていても誰も文句は言えない。

現実の歴史や地理が創作世界でそのまま反映されていなくてはならないのであれば、小説家は不要であり歴史家だけが存在すればいい。夏目漱石は歴史に反した小説を書いただけであり、そこにたまたま飛行機が紛れ込んでいたとしても誰にも文句を言われる筋合いはないのだ。

そのことはまた乃木大将夫婦の殉死という時代錯誤の馬鹿馬鹿しい現実を契機に、森鴎外を極北の史伝小説に向かわせたことと同じ根を持つ問題なのかも知れない。

またこうした事柄が殆ど真面目に論じられて来なかったのも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の原作が隠されているように思えることと同じ根を持つ問題であり、『明暗』や『坊ちゃん』がなんでもありだったからではなかろうか。

創作世界の自由さを徹底的に認めること、「なんでもあり」なのだと真の意味で許容することで、これらの不思議な出来事は何ら不思議なものではなくなる。

つまり「飛行機」や「延岡」に解説者が注をつけることもなく、そのことが殆ど論じられて来なかった事にも一つの答えが出る。

それは私自身が村上春樹のなんでもありの小説世界を楽しみながら、夏目漱石のなんでもありを認めなかったこと、そのどうにもちぐはぐながら今更ごまかしようもない現実に対しても一つの解釈が与えられるかもしれない。

あるいは一見不可思議な、あるいは極めてだらしのない、あるいは悪ふざけのような批評家のふるまいも不思議ではなくなる。



有意味なものを貶下し、無意味なものに真剣に取り組んで見せること。これは『風の歌を聴け』において、アメリカ人もほとんど知らない、また知る必要もない作家デレク・ハートフィールドを大々的に持ち上げて、彼から書くことを学んだといってみせたりするところにもあらわれている。

(『終焉をめぐって』/柄谷行人/福武書店/1990年/p.83)


 

正直に言えば、私はこの日本文学史上最高レベルの知ったかぶりに何度も大笑いしたものだが、ここにはなんの知ったかぶりも、二年生ぶりっ子もなかったのかもしれない。現実世界の常識だけで考えれば、ここで柄谷行人は自分が知りもしないし、アメリカ人が誰一人知る筈もないデレク・ハートフィールドという架空の作家について「アメリカ人もほとんど知らない、また知る必要もない」という知ったかぶりの全否定をしたことになってしまうが、これは村上春樹信者の陥りやすい勘違いではなかっただろうか。

デレク・ハートフィールド捏造説はもっぱら村上春樹の主張であり、その『風の歌を聴け』が創作である限り、あらゆる意味で事実ですらない。

つまりデレク・ハートフィールドは創作世界に現れた架空の存在なので、「なんでもあり」という性質を備えていて、「アメリカ人もほとんど知らない」→「実在の存在として少しは知られている」可能性が全くなくはないということだ。あるいは柄谷行人は「今後、村上春樹がアメリカ人になる可能性がゼロではない」と主張できるかもしれない。(たとえば戦争によって。)そうであれば「アメリカ人もほとんど知らない」という記述は誤りではない。少なくとも村上春樹は仮構世界のデレク・ハートフィールドを誰よりもよく知っているのだ。またその奥さんも最初に原稿を読むのでデレク・ハートフィールドをよく知っていることになる。奥さんがアメリカ人になれば、少なくとも二人はデレク・ハートフィールドについて知っているアメリカ人が存在することになる。まだ確定していないことを前提に批判するのはそもそも間違ったふるまいであるとも言える。

そもそも村上春樹が知らないだけで、デレク・ハートフィールドという作家が存在していて、火星人や金星人の登場する小説を書いていて、柄谷行人はそのことを知っていたという可能性がないわけではない。つまり村上春樹はデレク・ハートフィールドの存在を知らないで、実在のデレク・ハートフィールドそっくりの架空のデレク・ハートフィールドを書いてしまったのかも知れないのだ。

どんな現実も前提にしなければ、柄谷行人がこの批評を書くまでの間に、書かれてもいないデレク・ハートフィールドの作品を現に読むことのできたという人が少しは存在してもおかしくはない。デレク・ハートフィールドは架空の存在なので、アメリカ人に知られている筈がないという思い込みは創作世界の「なんでもあり」という性質を限定によって否定していることになる。「なんでもあり」ならば限定はない。本当にどのようなものが仕組まれても良いことになり、『空気さなぎ』を書店で購入したという人が現れてもよいことになる。(『ヤクルト・スワローズ詩集』をメルカリで転売した人も実在し得る。)


あるいは現実世界においては認知のバイアスまでは許容されるとして、柄谷行人が読んでもいないデレク・ハートフィールド作品を読んだと思い込み、アメリカ人との会話の中で何度かデレク・ハートフィールドの話を聞いたことがあるような記憶を持っていても可笑しくはない。一か八かでわざと知ったかぶりをしたのではなく、たまたまそうなった、結果としてそうなった、そのように創作世界が仕向けたと考えてもよいのではなかろうか。

つまり柄谷行人が知ったかぶりをしたのではなく、創作が知ったかぶりをさせたのだ。

創作世界がなんでもありならばそのような、誰かに知ったかぶりをさせるような創作があっても可笑しくはない。

夏目漱石は飛行機の未来を空想したのではなく、何でもありの世界に飛行機を登場させたのだ。

これは神秘主義の話ではないし悪ふざけでもない。

そもそも仮構の現実化はさしてめずらしいことですらない。かわぐちかいじの『僕はビートルズ』では、ビートルズのコピーバンドが過去にタイムスリップして、ビートルズのデビュー前にファブフォーというバンドを組みレコードデビューしてしまう…。これは漫画の話であり仮構ではあるが、今、ユーチューブでは現実のファブフォーというビートルズのコピーバンドを見ることができる。実在するコピーバンドと漫画の関係は知らない。たまたまそうなったにしてもバンド名が共通しているのはどうかと思うし、悪ふざけにしてはコピーバンドのレベルが高すぎる。

どう考えても悪ふざけではなく、これは私だけに見える幻覚でもなかろう。

個人で運営されている『虚構新聞』はあくまでも虚構であるニュースを報道するが、しばしば現実が虚構新聞を意図して模倣する。現実は仮構の模倣を求めている。


いや、そんなことは神話から始まる仮構が常に求められてきた歴史をなぞっているだけだ。仮構は現実を侵し、生々しく人を死に追いやってきた。

たまたま群像を立ち読みしていた私は、デレク・ハートフィールドについて、カート・ヴォネガットみたいな作家がアメリカには他にもいるのだな、ハイホーって流行っているのだろうか…とハートフィールドの実在を一旦信じた。それは『群像』で村上春樹の『風の歌を聴け』を読んでいる最中の自然な態度であった。受け止めとして自然な形で創作を受け入れること、それが創作世界を肯定する態度だ。

柄谷行人がどのような情報を得て、どう判断したのか、その過程は知らない。

しかしある意味柄谷行人のとんでもない知ったかぶり、二年生ぶりっ子は、村上春樹という作家に対するいささかやり過ぎ感さえ漂う究極の絶賛だと捉えて良いかも知れない。

この記述がまともなものであるならば、柄谷行人という批評家は、村上春樹作品の創作世界に飲み込まれてしまったと見るしかない。その可能性は夏目漱石の『行人』の作中人物の妄言を夏目漱石自身のイデオロギーとして読み取ってしまうという奇妙なふるまいで予告されていたものだ。確かに奇妙なふるまいではあるが、これは柄谷行人だけの特性というわけではない。

例えば『絶歌』という本が出版されると、日本中の善良な人々がブックレビューに猿のような悲鳴を書き込んだ。書かれていることをそのまま事実として受け止めてしまった。遊びとしてそういう粋があることは『吾輩は猫である』が示す通りだが、『絶歌』に関してはそういうものではなかろう。心理学者や教育評論家が『絶歌』に書かれていることを事実として真面目に議論を始めた。元少年Aの創作もまた現実世界を侵食した。

おそらく宮沢賢治の詩は「ヒドリ」に改められるのが正しい。しかし正しさは、その訂正を肯んじ得ない読み誤りよりも弱い。またこうとも言える。おそらく宮沢賢治の詩は「ヒドリ」に改められるべきである。しかし何もかも「べき」の通りなるわけではない。

恐らく漱石は清子を飛行機に乗せるべきではなかった。だが漱石の小説は「べき」に縛られることを拒んだのだ。

私はこうして極めて私的に、現実世界と現実に近い可能世界の先に虚構世界ですらない創作世界を発見した。あるいは世間の誰でもが知っていて普通に理解している創作世界の成り立ちにようやく気が付いた。その創作世界はほんの少し現実世界に染み出している。だから宮沢賢治の詩は訂正されることはなく、『明暗』で清子は飛行機に乗るのだ。

ここまでは屁理屈のようなものだと受け止めた人は、次の事例について考えてもらいたい。

どうにでもごまかしようがある世界


元少年Aの『絶歌』は実に器用な「作品」だ。さまざまな登場人物をあだ名でキャラクター付けする。アポロ、ダフネ、ワトソン、ウッディ、バズ、ゴクウ、ハッカイ、サゴジョウ、ジンベイ、イモジリ…。その中によそよそしい頭文字が二人分ほど混じる。おそらくけして特定されてはならない人の筈だが、敢えてよそよそしい頭文字を使う。私はこの頭文字について、Gだから「後藤」や「合田」である必要はないと、さして苦労なく考えることができた。

現実世界で「広田さん」や「林さん」をKさんと呼ぶのは誤りだ。

しかし創作の中でなら何と呼んでも誤りではない。

創作世界はどうにでもごまかしようがある世界だからだ。

立ち読みで一度きりしか読んでいないので、初見でそう判断できたという事になる。

この『絶歌』という本には、いくつもおかしな点があることから、早々と事実ではないと判断できた。少なくとも出来るだけ忠実に事実のみを書こうとした自伝ではないことはすぐに判った。

冒頭の過少誇張法は事件そのものを知っている者をも引き込もうとする意図がありありだ。一瞬、冤罪でも主張しそうな書き出しなのだ。そして瞬く間に間テクスト性のレトリックが続く。浮遊する視座、信頼できない語り手、赤ニシン、強烈なジョークの前振り、カオナシが顔になり、ボディから顔をナシにするという筋立て、前半が切断・後半が溶接という構成、ナイフにフォーカスし、引きの画で場面転換するというドラマ的技巧、たまごサンドという小道具の使い方、そして何よりも「書きすぎない」・省略というレトリック…。まるで中堅作家の手練れだ。

これでもかこれでもかと技巧を畳みかける。

そこにはカツアゲされる恐怖からナイフを所持し、『ノストラダムスの大予言』に怯えている少年の蒼いスノッブではなく、何かを確信した大人の仕事が見える。

元少年Aは何故か「懲役13年」という謎の文章を作品にそのまま引いている。「懲役13年」はダフネ君が一度だけ見せられ、記憶し、ワープロで打って、印刷し、フロッピーディスクに記録も残さず、事件の証拠として警察に提出されたものである。「懲役13年」はとても一読で記憶し再現できる長さの文章ではない。そんなものは恐らく捏造された何かである。それをそのまま訂正もなく引用するのもおかしい。可笑しいが、そんな偶然が全くないとは言い切れない。

村上春樹が捏造したと主張するデレク・ハートフィールドの小説をアメリカ人の誰かは知っていて、読む価値がないと柄谷行人は主張した訳だから、柄谷行人がどうにかして読んだデレク・ハートフィールド作品と村上春樹が創作した作中作品は偶然にも一致したことになる。常識で考えればそんなことはあり得ないが、柄谷行人が真面な人間であるとしたら間違っているのは常識の方である。なんでもありの創作世界は常識を覆すのである。

殆どダフネ君の創作としか考えられない「懲役13年」と実際に酒鬼薔薇君の書いた「懲役13年」が偶然に一致してしまったこと、これは創作世界の力があってのことである。

結末は作中でもバイブルと紹介されている三島由紀夫の『金閣寺』と同じ、煙草を吸い、生きようと決心するというエピソードだ。(『命売ります』も同じ結末。)

他にもさまざまな理由があるが、私はこの『絶歌』を正直な告白ではないと読中直ぐ判断した。

そうであれば、Gさんが田中であったり、鈴木であったりしても全く問題がない。いやむしろそうひねるべきだと考えられる。その方が社会復帰後、匿名で生きるのには優位であろう。あの時のあいつが酒鬼薔薇だと感づかれるリスクが減少する。ジンベイさんのモデルが小柄で、イモジリさんのモデルが丸顔でもいいことになる。三島由紀夫と元少年A、そして昭和天皇はともに身長が163センチだが、作中では校門の柱の上にやすやすと手の届く二メートルの巨人であってもかまわないことになる。

なんでもありなのだから。

あるいはペンネームなのだから、元少年Aが「元少年A」でなくてもいいことになる。

そんな理屈が私には本当の意味では解っていなかった。

少年Aが事件の全てを引き受けるため、どうしても書かれるべきであった殺人の段取りは編集者の謎の配慮によって切り取られ、結果として『絶歌』は、過去に明らかとなっている情報にあたれば、誰でも書き得る程度の小説のようなものになってしまった。真実とは思えないいかがわしいものを内包した「創作のようなもの」になってしまっていた。

私は創作世界の中でも頭文字は厳密に当てはめられるべきだと妄信していた。

このようないかがわしいものが現れたことによって、私は頭文字のルールについても考えを改めることにした。

創作世界はなんでもありの世界であり、そのなんでもありは現実を侵食しうる。

夏目漱石の『こころ』のKについて、島田雅彦が幸徳秋水、またはキング(天皇)であると書き、高橋源一郎が工藤一だとしているのに対して、私はそのことを明確に間違いであると批判してきた。Kという呼び名は養子に行く前後で変わっていないので、Kは姓ではなく名である、と考えてきた。

島田雅彦、高橋源一郎、この二人の『こころ』のKに対する解釈は杜撰な読み誤りから生じた曲解であり、どうにもごまかしようのない完全な間違いだと断じてきた。

ここでも現実の論理をそのまま創作世界に当てはめていたのだ。

しかしもしも創作世界がなんでもありの世界であるなら、どうにでもごまかしようがあることになる。

今更ながらよくよく考えてみれば、創作世界では秋水にKという頭文字を当てはめてもよいし、エンペラーが養子になってもよい。またKがミドルネームであってもかまわないのだ。つまり島田雅彦や高橋源一郎は間違えたのではなく、なんでもありの世界に呑み込まれたのだ。なんでもありの世界では氏名が姓と名ではなく、姓と姓で構成されていてもよく、そのルールが一人一人違っていてもいい。(復姓は当たり前にある。)

そもそもKとはよそよそしい頭文字ではなく、Kの本名はショーンKなのかもしれないのだ。

あるいは島田雅彦、高橋源一郎がKを苗字だと間違える世界を、夏目漱石は描いたのだ。

もしも創作世界がこのようなどうにでもごまかせる世界ではないとしたら、島田雅彦や高橋源一郎は単に夏目漱石作品を読み誤った馬鹿ということになってしまう。さすがにそれはなかろう。それに彼らの主張が印刷されるまでには少なくとも担当と上司といった二人以上のプロの編集者が関わっている筈だ。三人寄れば文殊の知恵という。幸徳秋水、天皇、工藤一を推した人たちには少なくともここまでの理屈は理解いただけることだろう。

だが同時にこのロジックではKが竈門炭次郎である可能性も否定できない。つまりKはあらゆるものであり得るので、何かであることは間違いではないが、幸徳秋水、天皇、工藤一だと決めつけることに殆ど意味はない。Kは天皇でも田螺でも良いのだから。

また村上春樹は『1Q84』において、決定的なミスを犯していると私は考えてきた。

特別養子縁組制度のなかった当時、七号定住者にしかなることができず、日本人になることのできなかったはずのタマルが自衛隊員になり、存在しないレンジャー部隊に属していたという設定には無理があると考えていた。

確かに現実的にはそんなことはありえないが、創作世界に日本の現行法など通用しない。そうであればどんな設定も可能である。警察官の所持する拳銃がオートマチックであっても、月が二つあってもおかしくないのだ。ならば「千尋の底にぞ入り給ひき」と書くべきところを「ちいろの底にぞ入り給ひき」と書いたとしてなんの問題もない。

村上春樹の『騎士団長殺し』では内容証明に離婚届けが同封されている。騎士団長が和装して穴の中から現れるのだから、内容証明に離婚届が同封されていたとして何の問題もない。現実世界の東京タワーは赤と白に塗り分けられているが、昼間からそれがオレンジ色に見えても何の不思議もない。「あらない」などと奇妙な言い回しが可能なので「どかし」と書くべきところをあえて「どかせ」と書いても構わないのだ。製氷機と冷蔵庫が入れ替わることもあるだろうし、他人の子供が自分の子供であっても構わない。

肖像画家が小説を書いているのだから、大抵のことは許されるべきなのだ。

そもそも夏目漱石の『吾輩は猫である』は猫が話者となり語られる小説である。現実的には猫は人間の言葉を書かない。前足の構造からして、ペンが持てそうにない。だが小説の中ではそれは矛盾とはならない。つまり清が坊ちゃんの実母であってもよく、坊ちゃんは前世でうらなり君にお世話になることができるのだ。現実には前世などない。しかし創作世界の中には前世があってもいい。だから坊ちゃんがうらなり君だけをやたらと贔屓することもなんら不思議なことではないのだ。

創作世界の中では数学さえも通用しない。アレシボ・メッセージが示す通り、数学は宇宙人にも通用すると考えられている。ところが創作世界では数の規則すら現実とは異なる。1の次の整数が2でなくても構わないのだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ではつくるが死の淵にいた期間は七か月から五か月の幅がある。つまり七か月と五か月は大体同じ期間になる。それで何かが破綻するわけではない。またつくるは木元沙羅と三度目に会った時にセックスをする。初対面は先輩の新築祝いでのメルアド交換なので、三度目に会ったのは二回目のデートの時という理屈になる。つくると木元沙羅は二回目のデートでセックスをしたのだ。四回目のデートの時点で、つくると木元沙羅は一度しかセックスをしていない。それなのに四回目のデートでもセックスをしないことに妙にこだわる。けして外に出せない思いを抱く。

この数字の食い違いは致命的な校正ミスだと私は考えてきた。しかし厳密になんでもありという創作世界を考えた時、創作世界に三という数字がなく、二回目のデートの後は四回目のデートであっても可笑しくはない。

つまり『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は「三回目」という概念がないか、その辺りの事を考えようとするとよく解らなくなる独特の創作世界であると考えればよいのだ。大抵の出来事は一度きりだ。繰り返されることなどない。そういう世界を想定することが出来ないで、間違いだ、校正ミスだと騒ぎ立てるほどに、私は愚かだったのである。だが、しかし私はこの自分の愚かさを、自分一人が抱えている特殊な、ただただ愚かな間違いだとは思えない。

このセックスのタイミングは後半部で改めて三回目のデートの後でセックスをしたと書き改められる。これも矛盾ではなかろう。創作成果の中ではそもそも論理記号などナンセンスなのだと考えてみるべきかもしれない。

そして少なくとも私以外の誰かも一人くらいは同じ錯覚に陥ってはいまいかと夢想するのである。そうではない。誰もが夏目漱石の『それから』を読んで「緑色の液体を出す植物は変だ」と思うとは思わない。ただ少なくない割合で、あるいは作品ごとに、誰かは創作世界に現実のルールを当てはめて不思議がっていたのではないかと疑う。そうして創作世界のなんでもありを許容していなかった人達、柄谷行人や高橋源一郎や島田雅彦とは別の世界に留まっている人達にとって、この創作世界の発見は意味のある言葉に当たると私は考えている。

そのままうけとめるべき世界


そうか、どうにでもごまかしようがあるのかと気がついた後で、私はこれまで自分が現実世界と虚構世界とを明確に区分して、小説を虚構世界に置いていたことに気づかされたのだ。なんでもありが現実にまで染み出した創作世界というものが近代文学の本質であり、その解釈はいくらでもごまかしようがあることに今更気づかされてしまった。そのきっかけが宮沢賢治の詩だった。

言ってみれば今までは現実に騙されていたようなものだ。

裂け目ができれば様々なものが勢いよく噴き出してくるのは必然だった。

あるいは『それから』では、冒頭で天井裏から投げられた護謨毬が天井を貫通するような比喩がある。今まで私はそれを漱石のユーモアとして受け止め、天井がなければ天井裏もなく屋根裏があるだけだと無責任に笑っていた。創作世界においては独特の物理法則が働き、護謨毬が天井にさえぎられることもなく、天井がなくとも天井裏はありうるとは一切考えなかった。『不思議の国のアリス』を読んだ筈なのに、そこから何一つ汲んでいなかった。むしろそうした矛盾を拒否し、現実世界における論理を創作作品に押し付けようしていたのである。それこそは杜撰な読み誤りではなかっただろうか。

そもそも創作世界がなんでもありの世界であり、その解釈はいくらでもごまかしようがあるのなら、何もかも真ではない世界をそのまま受け取ればいいことになる。

最も甚だしい誤解は、『行人』の重箱に関するものだったのかもしれない。二郎の元に届出られたおはぎの重箱は、実家から持たされたものであったのに、嫂が里から届けられたもののようにミスリードした、と私は勝手に解釈してきた。勝手に嫂を悪くしていた。

しかし何の前提もなく作品そのものを厳密に読めば、そのような事実はどこにも示されていない。父親から「重箱を返しもしない」と愚痴を言われただけだ。そのことが即ち嫂の策略を示しているとは言えない。父親が嫂を悪く見せようとして罠を仕掛けた可能性が全くないとは言えないのだ。あるいは実家から届けられた重箱は嫂の里に渡り、嫂の里から別の重箱が齎された可能性もないとは言えない。ここまでは現実世界の論理を虚構世界に押し付ける考え方だ。創作作品であれば、二郎のもとに届けられた重箱が嫂の里のものであり、同時に二郎の実家から届けられたものであることも可能だ。

全部下女の「お重」の幻想であってもいいのだ。

なんでもありをそのまま受け止めればそういうことになる。

世界は幾つに分岐してもよく、並行して成立する。

そんな当たり前のことを今まで私は一切考えてこなかった。

そう気が付いてみると『明暗』に現れる「生きたままの生まれ変わり」という言葉の意味がようやく理解できるような気がしてくる。現実世界では生きたままの生まれ変わりは論理的な矛盾を生じる。

そもそも生まれ変わりという概念そのものが論理的ではない。肉体でも意識でもない何が生まれ変わりのキーになるのか想像できない。しかし創作作品が何でもありの世界であれば可視的であったり論理的であったりする必要はない。

今まで私はそのあたりまえの事実を無視して、創作作品を現実世界と同じ論理で縛り、あたかもそうあり得た可能世界に押し込めてきた。それは創作作品に接する態度として根本的な誤りではなかったか。

例えば友人の小林が医者の小林の生きたままの生まれ変わりであれば、友人の小林が関らの病気について知っていたという謎が解ける。そうでないとすれば様々な偶然を作品に挿入することになる。創作作品において「生きたままの生まれ変わりなど現実にはあり得ない」という現実世界の論理を当てはめて創作世界を拒否することを、私は勝手に読書だと思い込んできたのだ。

それは官報を読んで法改正を確認するような貧しい読みではなかったか。

何の前提もなく読めば『それから』の結末は代助が中野駅から引き返すことではないのかもしれない。当時の電車の敷設状況からすれば、代助はそう遠くまで行くことはないのだが、私は作品に書かれてもいない当時の状況を勝手に創作世界に付け加えてしまっている。それは漱石作品にしばしば登場する新橋の停車場を今の新橋駅に引き寄せてしまうような曲解ではなかろうか。新橋の停車場は新橋駅ではない。飯田橋もそうだ。創作作品では電車が銀河に伸びても文句を言われる筋合いはない。

また私はこれまで『虞美人草』の藤尾は自殺などしていない、金時計が砕かれたので死んだのだと繰り返し主張してきた。改めて思えば、それは現実世界の論理を創作作品に押し付ける態度でしかない。

藤尾は比喩として虚栄の毒を仰いだのだと決めつけてきたが、創作作品の中では虚栄の市から虚栄の毒を買うことも可能であり、我の女が最後に惨めに、あるいはしおらしくくじけることが不可能ではない。

現実世界の理屈で言えば、虚栄の市から虚栄の毒を買うことはできない。必要に応じて空中から毒が現れれば漫画だ。だがその漫画を漱石は書いたのだ。

また『こころ』においては、「私」がKの生まれ変わりのようにほのめかされていると解釈し、けして「私」はKの生まれ変わりであるとは書かなかった。そう書いてしまえば現実世界の論理が壊れてしまうからだ。

いやむしろ漱石は『こころ』があくまで創作作品であり、現実世界とは成り立ちが異なることを到底懐に収まりきらぬ長い手紙によって確認していたのではなかっただろうか。「私」は懐かしみから先生に近づく。そして先生が特別である理由は先生の遺書によって事実として証拠立てられる。そして先生は人を愛しうる人、愛すべき人として完全肯定される。Kの許しがなくて先生は救われず、冒頭のあのすがすがしさはあり得ないのだから、「仄めかし」だのと言葉を濁すのではなく、「私」がKの生まれ変わりである創作作品の世界のありようを素直に認めるべきだったのだ。

あるいは『明暗』で唐突に出現する洋杖、それを「ずっと隠されていた」「ずっと隠していた」と解釈するのも誤りであろう。現実世界の論理で考えると、確かに津田は洋杖を持っていて、お延が手を出すまでそれを意識していなかったことになるのだが、お延が「洋杖」と言った瞬間に洋杖が出現したのだと考えることも可能だ。

私は温泉旅館に小林が押しかけて津田に殴られて大の字になり、津田の頬の内側が火照るという妄想を「現実ではないこと」という奇妙なくくりに入れていた。そもそも『明暗』は小説であり、そこに書かれていることはどれもこれも現実ではないのだ。

津田も清子も実際には温泉旅館に行っていないのだ。そもそも津田も清子も妄想の中の小林同様実在しないのだ。

夏目漱石に弁明させるまでもない。大正五年に民間旅客機はない。清子もいない。ならば実在しない民間旅客機に実在しない清子が乗ることに何の不思議があろう。

私はこれまで一貫して『三四郎』は色を隠した作品だと捉えてきた。色を隠しながら最後に色の出し方がしゃれていると評されることで話が落ちていると考えてきた。そして『三四郎』のそれからでは生きたがる男・代助が眼球から色を出す批評家になることで二重に落ちをつけていると考えてきた。代助は新聞小説から郊外の小さな家、日本の国家戦略まで批評する。

しかしこのストーリーの前提はあくまで現実世界の論理である。つまり今まで私は本質的に創作作品というものを一切認めず、創作作品の中に現実世界の論理を押し付けて、それが読書だと思い込んできたのだ。

美禰子の着物の色も蝉の羽の色も隠されていたのではなく、見ても語りえない世界に三四郎はいたのではなかったか。

その理屈は『野分』も同じであろう。着物の色が書かれないのは、その着物の色が書かれない世界であることのみを意味し、現実的には何色なのかなどという類推には全く何の意味もないのだ。

そのことはまた、『吾輩は猫である』において吾輩を描く先生の絵が何とも言えない色であるという記述によって念押しされていると捉えてよいかもしれない。それは実際には何色かと問うことは、創作作品が創作作品であることを認めない態度だ。現実世界の絵には色があるが、創作世界の絵には色ではない形容があってもおかしくはない。またなにもなくても問題がない。創作作品にはなにもないがあってもいいのだ。

私はこれまで「抽象的な表現」の本質を根本的に間違えていたかもしれない。『明暗』における初夜、『草枕』における混浴、『門』において宗助がお米を奪う場面の記述について、それは極めて抽象的な表現であるから、より具体的な絵面に読み替える必要があると考えていた。新聞小説という制約ゆえに、具体的な表現がはばかられただけなので、読み替えることが正しいと思い込んでいた。それはあまり漫画を読んでこなかったことからくる弊害、抽象的表現を認めない態度ではなかったか。

そのことに気が付いたのはたった今だ。私は今、抽象的な表現がそのまま可視化されるドラマやアニメのシーンをいくつも思い出した。そういうものを確かに私は見てきたのである。

余りにも生々しい場合、いささかわざとらしさを強調しながらコミカルに人形劇が始まることは珍しくない。

そんなものは繰り返し見てきた。

しかしそのドラマやアニメの抽象的な表現を、何故か小説では一切認めてこなかったのである。

今更そんなことを言われても、そうではない読み方をしてきた人には何も感じられないかもしれないが、私は具体的な表現も抽象的な表現も、ある程度具体的に可視化することが正しいと勝手に思い込んでいた。具体的に可視化できない表現は、勿論言語に留めるも、「駒とめて袖打ち払う」というところまではイメージし、そのイメージを「影もなし」で消すことはなかった。

私は抽象的な表現を具体的な絵に落とし込むことで、抽象的な表現が持つ演出効果を台無しにしてしまっていたのかもしれない。

ガスに火が点いたと書かれればガスに火が点いた絵を思い浮かべればよかったのだ。実際夏目家には当時ガスコンロが三口存在した。作者は実際ガスに火が点く絵を思い浮かべていたかもしれない。嵐が書かれれば嵐を思い浮かべ、視線が体を一回りすればそれに付き合うべきだったのかもしれない。そういう心象風景が不可能であると決めつけていたがために私は漱石作品から演出効果を奪っていたのではないか。

たとえば『それから』で三千代と代助と三千代の兄とは三つ巴の輪となりあははあははと笑いながら回転するべきであり、『こころ』の静は一瞬頭に黒い蛇をのせて歩いていたのであり、『三四郎』では黒い着物を着た人と白い着物を着た人が交差していたのであり、舞台の上にはたくさんの入鹿大臣がいたのである。三千代は昔の金歯を見せたのであり、藤尾の目は赤かがしの目に変わったのである。

私はこれまで『こころ』の「私」は鎌倉で先生と泳いだ際、全裸であると決めつけてきた。水着を持たず、一切を掛け茶屋に脱ぎ捨てているからである。西洋人の猿股は水に濡れて透けており、「私」は丸裸だと考えてきた。先生と「私」は二丁も沖に出る。浴衣など着ていては溺れてしまう。そう現実世界の理屈で考えていた。

しかし創作作品の中でなら、そんな心配をする必要はないのだ。現実世界であれば猿股は水に濡れて透けていたかもしれない。しかし創作作品の中では水に濡れても透けない猿股があっても可笑しくはない。

改めて鎌倉の海水浴の場面を読み返してみると、漱石は「私」と先生の全裸を描いていない。この場面を忠実に映像化するとして、二人の股間は巧妙なアングルで隠され、全裸であるのかないのか曖昧であっても可笑しくはないのだ。

全裸なのか全裸ではないのか、そんな現実の理屈を創作作品に押し付けても仕方ない。いやつい数分前まで、自分自身が「私」は全裸だと思い込んできたからこそ、今ではその愚かな思い込みの無様さが身に染みるのだ。

創作作品の中では何があっても可笑しくない。だから先生がどうしても「私」を満足させることが出来ない理由、そして天罰で静との間にけして子がなせない理由が、先生の股間にあると考えても良いとさえ私は考えていた。そうであれば念押しするように「私」の前で立小便する先生のふるまいにも理屈が立つ。ただそれはあくまでも現実世界の理屈だ。

先生の股間はどうであったのか描かれない。どちらでもあり、どちらでもないなんでもありの世界に先生はいるのだ。

必ず「どちらか」である必要はない。それが創作世界であることを認めていたからこそ、柄谷行人はさもデレク・ハートフィールドが存在する体で自信満々に村上春樹をこき下ろそうとしたのではなかろうか。

暗号ではない創作世界


 思い返してみれば、私はどこまでも自由であるべき創作世界を、現実の論理で批判してきた。創作は作者の暗号であり、隠された意味を取り出すことが読書だと決めつけていた。なんでもありであり、どこまでもごまかしようがあり、そのまま受け止めるべき世界の中に意味を見出そうとしていた。それはさながら「検閲」と呼ばれても可笑しくないふるまいであり、マスク警察となんら変わらない根拠のない小さな傲慢さの表れではなかっただろうか。

 例えば私はくり返し『趣味の遺伝』を読んできた筈だ。しかしあの夏目漱石が、皇軍兵士を犬に準えていると文句を言い始めたのはそんなに古い話ではない。

自分の記憶を疑うのは自分の感覚を疑うほど難しいことではない。そしてさして不快な事ではない。ただ不安はある。自分が忘れていて、思い出したくないことに再び出会うことに。

私は何十年もの間、『趣味の遺伝』を繰り返し読みながら、それがどういう話なのか全く理解できないでいた。あるいは読んでも何も感じなかった。今ではそんな馬鹿なことはあるまいと思う。あれほど激しい作品なのだ、どちらかに感じるべきなのだろうが、無限に正直に言って、初見の記憶はない。今更どう思おうが『趣味の遺伝』に繰り返し接してきたはずの過去の自分が、この作品に対して何か具体的な印象を書き残したという記録は見つからない。なんなら私はその他の漱石作品に関してメモのようなものを書き残しているが、『趣味の遺伝』に関しては一言も見当たらない。

今、何の前提もなしに『趣味の遺伝』を読めば、冒頭の争いは犬の喧嘩の話として受け止めることができる。絵としてそういうことになる。けして人間の争いではない。そこは厳密に区別しなければならない。描かれているのは犬の争いだ。何かが何かに準えられているという現実世界の常識を捨て、創作世界のなんでもありを受け止めるべきであろう。

しかし数年前、突然私はこの『趣味の遺伝』は明治天皇批判であり、皇軍兵士を犬に準えていると主張し始めた。これが日露戦争に対する批判であり、夏目漱石は明治天皇制に文句を言いたいのだと主張し始めた。

そもそもそういう視点がなかった訳ではない。夏目漱石が『坊ちゃん』において御一新を「瓦解」と表現したことに対して、夏目漱石は明治政府を批判していると指摘している人がいないわけではない。

しかし小説をビール暗号の解読のように読むことは正しくない。ビール暗号は宝物の地図であり、ビール暗号に使用されるアメリカ独立宣言とは全く異なる意味を持つ。そう気が付いてみると「神」を開戦の詔を発した明治天皇、犬を皇軍兵士と読み替えることがそもそもの間違いなのだと解る。『趣味の遺伝』が映像化される場合、犬同士が吠え、互いの骨を砕き、血をすするべきであり、人間が戦闘するべきではない。さらにいえば、『趣味の遺伝』は日露戦争批判などではありえず、現実の何物とも無関係なのだ。フィクションが現実とは異なることはテレビドラマの終わりに繰り返し繰り返し念押しされてきた。しかし私はその説明の本当の意味が分かっていなかった。

あるいは『明暗』の洋杖に関して、繰り返しこの作品を読んでいた私は、津田があらかじめ洋杖を持つ遠景を見ていた。何度も読んでいるうちに津田が洋杖を持っていたことを覚えてしまったからだ。だがそれはモザイクの向こう側を正確に思い描く下品なふるまいに過ぎない。そして間違いである。

カメラは津田の顔面に据えられ、雀の巣を見るお延を映さなくてはならない。つまり映像的にも寸前まで洋杖は見てはいけないのだ。

そうでなくては意外性が欠け落ちる。

同じことが『それから』の代助が新聞を読む場面についても言える。繰り返しこの作品を読んできた私は、新聞が顔にではなく夜具に落ちることから、腹筋力で上半身をやや起こした窮屈な姿勢を見ていた。しかしこのアングルは間違いだ。

カメラは代助の目の位置で、紙面を眺めていなくてはならない。そして新聞が落ちたら夜具を、煙草の煙を牡丹に吹きかけるシーンでようやく代助の顔が映り込むことになる。つまり私がずっと見てきた腹筋力で上半身をやや起こした窮屈な姿勢は、現実世界の理屈を創作世界に持ち込んだ誤りなのである。

私はこの勝手な構図を漱石のユーモアだと見做していた。

まだまだ私の間違いはある。『こころ』で先生とK、そしてお嬢さんがすれ違う場面で、先生とKは難なくすれ違ったのに、先生がお嬢さんに道を譲るために泥の中に片足を突っ込まなくてはならなかった理由について、私はつい「書かれていない部分で実はKが素知らぬ顔で先生に道を譲っていたのだ」と思い込んでいた。その後やはり書かれていない部分で純白なお嬢さんに「Kさん、どうなすったのその足」と悪気なく訊かれているのではないかとさして悪気なく考えていた。

そして私は、Kは一度先生に「譲っていた」、「二度目は譲れなかった」と勝手な意味を見出そうとしていた。

現実空間の物理法則は創作世界にも当てはまると悪気なく信じていたからだ。それでは人は三メートルもジャンプできないことになり、今世間大評判の漫画は成立しないことになってしまう。道幅も人間の大きさも都合よく自在に変化するのが創作世界である。犬が兵士になるのが創作世界である。そう考えるとKの足は汚れなくとも済む。いくらでもごまかしようがあるなら、あるいはこの場面でお嬢さんがかなり太っていた可能性がないでもない。

小説は映像化すべきか


逆転クオリアという思考実験がある。これを、人によって見えている色は違うかという疑問として矮小化してみたところでさして害はなかろう。こういう疑問があること自体は昔から知っていたが、私はどういうわけかいままでその疑問を文学に振り向けることをしてこなかった。

あるいは私は今まで自分が小説を読んでいる時、頭の中で何が起こっているのかという事を明確には意識していなかった。本を読んでいる最中、意識は本の内容に振り向けられていて、自分の意識を意識しようとすると意識が本の内容から離れてしまうからだ。だが本を読んだ後でなら、自分の頭の中で起きていたことを思い出すことができるような気がする。

するといくつかの小説に関して、私の記憶は断片的に言語化されている要素と、言語化以前のイメージのようなものと、ぼんやりと映像化された要素、そしてナレーションと会話に関しては確かに音声のようなものも組み合わされているように思われた。どれも完全なものではないが、味覚や温度の記憶はない。ただ設定として熱い寒いの情報が残っているだけだ。

私自身の記憶をたどってみると確かに視覚情報をそのまま記憶に留めることはなく、一部をテキスト化あるいはテキストに還元できる意味のつながりとして記憶し、絵のあるスーリー、あるいは絵のないストーリーに還元可能な意味のつながりとして再構成しているような気がする。はっきりしているのは全てが可視化されているわけではないが、一部はぼんやりと可視化されているということだ。無論夢のように鮮やかなものではないが、はっきりしているのはテキストデータをそのまま記憶しているわけではないということだ。当然繰り返し引用した文字はテキストデータとして記憶している。ただしそれ以外のデータは、「だいたいこんな感じ」というデータに留まる。抜けもある。夏目漱石の『それから』の三千代の兄の姓など、何度読んでも忘れてしまう。作品とは概ねそのようなものとして、読者の中で再構成されたものとしてしか存在しえないもの、世界をありのままに見ることのできない、人間の記憶の中から抜け出すことのできないものではなかろうか。一方このような書き物は私個人の一連の意識を離れ、書き文字として再構成され、曖昧な情報や記憶の抜けをごまかしながら書かれるものであり、なんでもありとは言いながら、それなりのもっともらしさを装うことができるものだ。課題図書と首っ引きで読書感想文を書けば、そして何度も推敲すれば、テキストに還元できるストーリーの記憶をテキストに接近させることが可能だ。そしてよくできた読書感想文を再度読み込み、その記憶を作品を読んだ記憶と組み合わせてしまうことも可能だ。

これはそもそも私がたまたまそういう読み方をしているだけであって、ひどく個人的な問題なのか、果たしてそうではないのか、現時点では評価のしようもない。インターネットで調べた範囲では、比較的少なくない人が小説を可能な限り視覚化して読んでいる。

そこまでは良いだろう。

そうであれば私が行っている読みに置いて、何か根本的な欠陥があり、そのことで私はこれまでにありとあらゆる文学作品を読み誤ってきたのではなかろうかと気が付いたのである。

つまり読まれる以前には作品世界はなく、作品世界は読者の記憶の中で再構成されて保持され、やがて忘れられる。大抵は一度きりのパーソナルな体験だが、他人の読書感想文を読むことである程度共有も可能だ。

短詩型のもの以外はテキストそのものではない。読み上げられた作品は音の記憶ではあり得る。それでもある程度以上の音声データをそのままテキストとして記憶することはむずかしいだろう。一部はナレーターの声そのものとして記憶されていて、必要に応じて思い出した箇所をそのナレーターの声として脳内再生することは可能だろうが、本当の記憶は音声そのものではなく、その一つ手前の音声とは別のデータ形式ではなかろうか。

何度訂正しようとしても訂正できない脳内画像に、私の場合夏目漱石の『こころ』の先生の顔がある。正解は眼鏡をかけている筈なのだが、眼鏡をかけていない画像が繰り返し再生される。坊ちゃんはようやく最近になって坊主頭になったが、先生はいつも眼鏡を外している。また何度目からか冒頭の筆を執る「私」は眼鏡をかけるようになった。そう書いていないものを勝手に脚色している。

ただそういう感じがするからそうなのだとしか説明のできない現象だ。これは一例だが、繰り返し読んでいる作品こそ映像データが生じやすく、また一旦生成された映像データは意思の力によっては訂正しがたいように思われる。それはおそらく一度生成された映像は実際に見た映像と区別ができず、映像をテキストで修正できないからではなかろうか。できるのは別の映像と差し替えることだが、特定の記憶だけを自在に消去することができないので、一度差し替えてもまた最初の映像が戻ってくるようである。このようにして私の脳内に留められた作品の記憶はやはり「訂正を肯んじ得ない読み誤り」と言ってよいだろう。

この事実が示すものは、多様な解釈がありうるというような話に還元されない。しかし現実に「坊ちゃん イラスト」を画像検索してみると、実に多くのイラストが『坊ちゃん』の「おれ」を五分刈りよりやや長髪に描いていることが分かる。むしろ五分刈りの「おれ」がなかなか見つからない。実写映画でも「おれ」は長髪だったようだ。人の頭の中を直接のぞいてみることはできないものの、このような事実は「訂正を肯んじ得ない読み誤り」がけして珍しい現象ではないことを表していると考えてよいだろう。

あるいは「おれ」がマドンナに惚れたか惚れていないか、このあたりの解釈もまちまちだ。「おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖めて、掌へ握ってみたような心持ちがした。」この一行にフォーカスしてしまうと、惚れているように思えなくもない。「マドンナ」というあだ名もヒロインのイメージを生じさせやすい。

マドンナと坊ちゃんの記念撮影用顔出しパネルが松山に置かれているのは理由のないことではない。誰もが好き勝手に記憶した坊ちゃんとマドンナの映像をぼんやりと記憶していて、坊ちゃんの髪型は様々だ。その記憶のどれもが間違いではない。

創作世界のゆがみ


あるいはまったく逆に考えてみよう。

柄谷行人はだらしなく読み誤ったただの馬鹿なのであり、村上春樹の小説ごときに現実を侵食する力などなかったのだと。存在しない作家をあたかも存在するかのように知ったかぶった柄谷行人はだらしない批評家であり、その発言にはほぼ意味はなかったと。

柄谷行人が証明したことは、人は一定の割合で小説を読み誤るということではないのかもしれない。ただし柄谷行人の読み誤りによって、おそらく百年後にはデレク・ハートフィールド実在説と不在説がそれぞれ一定の割合で支持されることになることは事実だ。その百年後の世界において、柄谷行人は「とんだおっちょこちょい」と「優れた批評家」という二つの解釈の中で想起される存在となる。

この取り扱いは柄谷行人だけに与えられる特権ではない。

夏目漱石から酒鬼薔薇まで、おおよそ創作に加担したあらゆる主体が基本的に持つ本質であると考えてよいだろう。

例えば宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の隠れた一言が現れた時から、その解釈は大きく変わらざるを得ない。まだそうしたイメージを持つものはそう多くはなかろうが、よくよく考えれば多様に解釈できる創作世界においては、その観客の主観を作者が完全にコントロールすることはできない。なんなら作品すらコントロールできないのだから仕方ない。柄谷行人をおっちょこちょいに陥れるには、デレク・ハートフィールドが存在しなければよい。しかし何かが存在しないという証明はできない。従って多くの人は村上春樹自身の発言を信じることでデレク・ハートフィールドが存在しないという前提を置いているのだが、突き詰めればそれは信仰であり、完全な真実などではない。

もしもある日ウイキペディアのデレク・ハートフィールドのページが更新され、そこに充実した説明が見つかり、リンク先のアマゾンのページでその作品が販売されていて、いくつものレビューが見つかれば、柄谷行人は途端に優れた批評家に戻ることになる。

これは「仮構の現実化」ではない。「仮構の現実化偽装」か「事実の現れ」に過ぎない。

意味論的外材主義を思い出させる。

意味が誰かの頭の中にあるのではないとしたら、膨大な文字データと読者の組み合わせの数だけ創作世界が実在することになる。「とんだおっちょこちょい」から「優れた批評家」の間で読者はグラデーションとなるが、その点ではあらゆる書き手もお互い様である。作者の死を認めるなら読者も死んでおり、多世界的でかつ矛盾を生じない、物理法則の制限も受けない創作世界のみが実在することになるのだ。

ただおそらく宮沢賢治のような例はそう多くはあるまい。大抵の読み誤りは訂正されるか、訂正されないまでもわざわざ「ママ」とルビが振られて読み誤りであることが指摘される。極めて低い確率でしか「訂正を肯んじえない読み誤り」は発生しない。またデレク・ハートフィールドをさも知っていたかのような批評を書いたのも柄谷行人ぐらいではあるまいか。解釈の多様性は否定できないものではあるが、大抵の作品は穏便に取り扱われている。だからもし、多くの人に創作世界を現実と見誤らせたものがいたとするとやはり何かが根本から間違っているのだと疑わざるを得ない。

このことはまだ定着した誤植とは言い切れない。今後変わるかもしれないからだ。ただ一度は訂正を肯んじえなかったことは事実のようだ。

プラトンのソクラテス


けして偶然ではなく、私はまた長年考え続けてきたプラトンのソクラテス問題、歴史的ソクラテスについても考え始めることになる。理屈としては考えざるを得ない。

歴史的ソクラテスという概念は、『絶歌』にもある疑いを振り向けさせ、柄谷行人に関する擁護理論をもう一つ思いつかせてくれる。

我々はほとんどプラトンによってのみしかソクラテス哲学というものを知りえない。それ以外から知りえることはごくわずかだ。『絶歌』を通してしかダフネ君を知りえない我々はそこからダフネ君を批評する権利を持つといえるかもしれない。あるいはデレク・ハートフィールドについても同じことが言える。歴史的ソクラテスを論じるように、デレク・ハートフィールドを論じることには全く瑕疵はない。あるというならむしろ柄谷行人に対して、『風の歌を聴け』以外のデレク・ハートフィールドを差し出さなくてはならないが、そんな遊びは「小鳥ピヨピヨさん」しかしていない。

デレク・ハートフィールド実在説に加担してみようという遊びは誰にも咎められるものではない。ソクラテスについて書いた哲学者が同じ遊びをしていなかったという確証はない。

そしてプラトンのソクラテスと呼ばれるべきソクラテスが実在するように思われることも、またなんでもありの創作世界の世界が現実世界にはみ出してきた一例ではないかと思えてくる。あれだけの文章量を、つまりソクラテスの対話を、プラトンが全て聞き取り、黙って記録していたとは到底考えられない。そんな能力があるとして、ソクラテスがプラトンに話しかけず、プラトンがソクラテスに話しかけず、ただその対話を明瞭に聞き取っていることに対する合理的な説明が思いつかない。

プラトンのソクラテスには何がしかの記録が含まれているとしても、プラトンのソクラテスはプラトンと切り離されて存在しうるものではなく、プラトンの創作世界の中でのみ実在するソクラテスである筈である。

私はこれまでソクラテスのプラトン性にうすうす気がつきながら、そのことを意識の底に沈めて「ややこしい」議論を避けてきた。ソクラテスのプラトン性などと言い出せば、日本国の『日本書紀』性というものを考えなくてはならない。『日本書紀』がなくては、紀元節はない。だがそうした限定を「なんとなく」避けてきた。

しかしこの際、デレク・ハートフィールドの村上春樹性については、一応整理をつけておくべきであろうか。柄谷行人は、村上春樹に対して、デレク・ハートフィールドがけして村上春樹の専有物ではないことを示した。しかしこのことは案外過小評価されてはいないではなかろうか。

柄谷行人は果敢に村上春樹からデレク・ハートフィールドの独占権を奪おうとした。創作作品の原作に根元的な原作権がないことを示したのだとも考えられる。

元少年Aは元酒鬼薔薇であろうとされている。そのことを否定できる明確な事実はない。少なくとも『絶歌』という創作作品によって元少年Aは一連の事件を独り占めしようとし、自分こそは酒鬼薔薇だと主張した。今まで新聞や週刊誌、家族の手記の中で語られる側であった酒鬼薔薇の真の姿を自分語りするという体で『絶歌』を書いた。そういう体で出版社は『絶歌』を流布させた。

これによって出現したのが元少年A的酒鬼薔薇である。それは今まで書かれてきた酒鬼薔薇をなぞるように造形され、さして違和感なく仕立てられたものであった。ぬいぐるみの要塞からもっさりとした動作で起き上がる場面など、まるで父親の手記をそっくり真似たかのような表現になっている。取り調べの様子、ウッディとバズの家庭訪問時の様子、その他幾つかの場面が既に知られている情報と食い違うが、おおむね齟齬がない様に取り繕っている。取り繕われていることは前述した「懲役13年」がそのまま引用されたことからも明らかだ。なぜそのようにして迄元少年Aは酒鬼薔薇との同一性を主張しようとしたのか定かではない。だが『絶歌』によって最年少のシリアル・キラーがほぼ確定したと多くの人が受け止めたことだろう。

元少年Aはホームページ上で陰謀説には興味がないとしながら、飽く迄単独犯を主張し、警察のおかしな捜査や、母親の疑わしい態度にも言及しない。そうして臭いものに蓋をしてしまった。創作によって事実のような何かが固定されてしまった。

しかし注意深く『絶歌』を立ち読みすれば、その時間が細かく前後し、調整され、ストーリーを構成していることが解る。「父の涙」は前半部に置かれているが、時間軸で言えば第二部に属する。「ニュータウンの天使」は事件の何年も前の話だ。冒頭が現在、過去を振り返り、少年院の空白期間を跨ぎ、二部構成になっているわけではない。

ダフネ君に対して言った言葉の中から「酒を飲んでいてよう覚えとらんけど」(八割方俺がやった)という台詞が消されている。錠前を切断した証拠品として最初に糸鋸が、次に金鋸が出現したことを曖昧にし、金槌とハンマ―を曖昧にし、それを縦に振ったのか横に振ったのかを曖昧にしている。この作品はしばしば自分を美化していると批評されているが、むしろごまかされているのは事件の曖昧さである。

誰かは、これ以上好きに語らせてぼろが出ることを恐れるかのように、元少年Aの口を封じた。彼が完全に姿を消す前に、二つのいかがわしいニュースがどこからか沸いてきた。一つは『絶歌』が翻訳され海外で出版されるという噂である。もう一つは元少年Aが二重にパスポートを取得したという噂である。もし二つ目の噂が本当であれば、元少年Aは常に監視されていたことになる。そして二つ目の噂は元少年Aに対する警告であったかもしれない。週刊誌が元少年Aの素顔や居場所を晒し、元少年Aはどこかへ逃げ出さなくてはならなくなってしまった。元少年A的酒鬼薔薇によって元少年Aの歌は絶たれた。創作世界を信じた人々の怨念によって、作者は追い払われてしまったのだ。

『風流夢譚』と三島由紀夫


三島由紀夫は死の一週間前の対談で唐突に、マリー・アントワネットはお可哀想なんて言っていて革命が成り立ちますか、と言い出す。この唐突さの意味は未だ明らかではない。ただ私にはまた唐突に『風流夢譚』が思い出される。『風流夢譚』では皇太子妃が仰向けで首切られるが、それはマリー・アントワネットも同じである。

三島由紀夫は英国製の天皇を嫌い、幻の南朝に忠義を捧げる、天皇に熱い握り飯を差し上げると嘯いた。深沢七郎は皇后のコートに英国製のタグをつけ、御製で「みよしの」を詠ませた。皇太子妃の着物の柄を「金閣ですか、銀閣ですか」と尋ねさせるが、その柄は晒し首の名所二条大橋と、天照大神のお食事を司る御饌都神を祭る豊受大神宮である。

三島由紀夫には自衛隊と共謀して皇居に突入する計画があったことから、ある意味では『風流夢譚』というフィクションの一部を現実化しようとしていたと見做されても仕方ない。その試みは檄からの生首と小さく収束した。

よく知られている通り、三島由紀夫のあからさまな右傾化は『風流夢譚』事件以降の事である。

深沢七郎の『風流夢譚』は三部作の第一部で、第三部は『枕経』というタイトルであることのみが知られている。深沢七郎は比較的に落ちをつけるタイプの作家なので、まだふりが残されていると考えるならば、枕経を聴くものは首切られた話者であってもいいのではないかと私は考えている。誰もがフィクションだと思っていた楯の会がクーデターを実行し、三島由紀夫が生首になってしまったのは、『風流夢譚』というなんでもありの創作世界が、三島由紀夫の現実を侵食してしまったからではないだろうか。そうではないとしたら、三島由紀夫が死の一週間前の対談で唐突に、マリー・アントワネットはお可哀想なんて言っていて革命が成り立ちますか、と言った意味が分からないし『風流夢譚』に落ちが付かない。確かに書かれたはずの『枕経』がいくら探しても見つからず、三島由紀夫の生首ばかりが現れる現実の辻褄が合わない。三島由紀夫は『風流夢譚』に勝手に落ちをつけたのだ。

なんでもありの創作世界というものは確かに実在する。そう考えなければ説明のつかない現実世界が確かにある。


【参考文献】

『定本 漱石全集』夏目漱石・岩波書店・2018年

『虚構世界の存在論』三浦俊彦・勁草書房・1995年

『一人称単数』村上春樹・文藝春秋社・2020年

『終焉をめぐって』柄谷行人・福武書店・1990年

『絶歌』神戸連続児童殺傷事件 元少年A・太田出版・2015年

『深読み日本文学』島田雅彦・インターナショナル新書・2017年

『日本文学盛衰史』高橋源一郎・講談社文庫・2004年

『1Q84』村上春樹・新潮社・2010年

『騎士団長殺し』村上春樹・新潮社・2017年

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹・文藝春秋社・2013年

『風流夢譚』深沢七郎・『中央公論』・1960年



なーんちゃって。


なるほどー。




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