『趣味の遺伝』はどういう話か
夏目漱石の『趣味の遺伝』はその他の作品にいや増して、とても不思議で、奇妙で、複雑な構成の作品です。
外国人の感想を読んでも、この作品の奇妙さに辿り着いている人は皆無です。今日、この本で、
石原千秋さんの「進化論を超えて」を読んで、あっさりその部分がスルーされていることを確認したので、改めてその奇妙な点について整理しておこうと思い、この記事を書いています。
私が『趣味の遺伝』を読んで、奇妙に感じたのは、
①冒頭で日露戦争開戦の詔を発した明治天皇を狂った神と表現し、皇軍兵士を狗として表現していること。(そういうものが発表され、お咎めもなく、また「余裕派の漱石は戦争には無関心」などと云われること)
②第二章で話者「余」が浩さんの戦場に臨場してしまうこと。(この手法、他には村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』でしか見た記憶がない。)
③「趣味の遺伝」というテーマそのもの。
……などです。後半は筋の運びでさえ定かではないのですが、そもそも最初から、「この当時の漱石の状態は真面ではなかったのではなかろうか」と思わせるような書きっぷりです。細かい表現を拾うと『吾輩は猫である』にも見られた「機智とユーモア」もあるのですが、それが『吾輩は猫である』のように合いの手が這入らないので、「陽気のせいで神も気違になる」ではなく「陽気のせいで漱石も気違になる」話のような印象を受けます。軽い「躁状態」が感じられます。
この「当選」「紛失物」と云った言い回しが漱石一流のユーモアであることは誰しも認めるでしょうが、実は「陽気のせいで神も気違になる」という書き出しも、「嗚呼浩さん! 一体どこで何をしているのだ? 早く平生の浩さんになって一番露助を驚かしたらよかろう」と戦場に臨場するのも、ある種の「のり」から生じたユーモアなのではないかと私は考えています。
つまりふざけているのです。
ということは糞みそ理論でいえば、「趣味の遺伝」というテーマそのものもふざけている可能性はないでしょうか?
いやいや、漱石には「父母未生以前の面目」とか前世の因縁とか生まれ変わりなどの死生観があり、「趣味の遺伝」というのは案外真面目なテーマなのではないか、……と私自身がずっと考えていました。書き方がふざけているだけで、案外そういうことがあるのではと漱石は考えていたのではないかと私は考えてきました。
無論漱石は先回りして、こう説明しています。
真面目か滑稽という解釈には意味がないとしているのですね。ですからそもそも真面目でもあり滑稽でもあるのである、とは言いながら、やはりその極端さは少し真面ではないように思えます。
一般論として、人間には誰しも少なからずそういうところがあるのだ、という点については同意できますが、やはりこの性格論は極端すぎるのではないでしょうか。しかしおそらくこれを書いていた当時の漱石には、自分自身がこのように見えていたのでしょう。それをその日その日で色々になるのは自分ばかりではなく、明治天皇や皇軍兵士もそうではないかと人間の「変わりやすさ」を指摘しながら、その一方で先祖から受け継がれる「趣味の遺伝」という「世代を超えた変わらなさ」をも指摘するのは、大抵の命題は反対の意味に解釈が出来るからなのでしょう。
でも極端ですよね。「陽気のせいで神も気違になる」ではなく「陽気のせいで漱石も気違になる」話のような印象はこういうところから生まれます。大抵の命題は反対の意味に解釈が出来るとはいいながら、大抵の人は普段どちらかの命題を少しは信じて生きてゐるものです。どちらも全く信じられなくなれば、それは十分病気です。私には『趣味の遺伝』が漱石の病的なところが最もあからさまに表れた作品のように思えてなりません。陽気のせいではなく。
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