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夏目漱石の『趣味の遺伝』はどう読まれてきたか 日露戦争への熱意の欠如という自戒を、ある種の皮肉をもって扱っている

 「草枕」のメロディアスな旋律の中に、日露戦争(1904-05)の微妙な片鱗が見え隠れし、戦争に対する漱石のアンビバレントな視線を照らし出している。

「文明は、個人に自由を与え、それによって野獣と化した後、これらの不幸な人々を牢屋に入れることによって、平和を維持している。これは本当の平和ではない。動物園の平和であり、虎が檻の中に横たわり、隙間から覗く観光客を睨んでいる。その檻の棒が一本でも緩んだら、世界は崩壊してしまう」(草枕)

 慇懃無礼な文明は、個人主義という道徳的な繊維を押しつぶし、戦勝国万歳をするために育てた信念体系そのものである。蒸気機関車は文明社会を蛇行し、何千人もの人間を輸送する。汽車の轟音は、二つの世界を生み出す遠い戦争の轟音であり、その距離は旅人や残された者の慰めとともに増していく。不調和の本にスケッチされたように、黒煙を吐いて走る汽車は、顔の間の計り知れない無を減少させ、二つの戦争状の世界を融合して、失われた顔を探す熱狂的な探検に変えているのだ。新橋駅の列車は、兵士の帰還を喜び、狂喜乱舞し、「バンザイ!」の声が浮き足立った目の涙にこだまする。「文明の蛇」が文明の宿命的な犠牲者を運び、迂回的な苦悶的解釈で人間の本性の特殊性を迂回させる。戦争に突入した国の権威主義的なエートスに耐える新生個人主義の中にある「憐れみの愛」の思想は、日本国民の社会的・政治的・経済的生活の言説の中で慎重に演じられ、漱石の反戦文学は、戦争の残虐さの中で、誤った個性を持つ精神状態の中で、人間関係の重要な側面を瞑想的に考察し自己分析して、作られた状況の中の心理状態を探るものとして位置づけられるのです。漱石の散文は繊細で、淡々としているが、書かれた言葉が絵のように美しい路地裏の啓蒙的なイメージの中を良心的に流れるとき、それはまさに深遠さを発するのである。戦争は、人を殺さないときは、人を老けさせる。漱石は、人間の犠牲の正当性に宿る愛国心という大義名分に疑問を投げかける。戦争で犠牲になったものの価値や大きさ、それは無駄なのか実りあるものなのか。正直は日常生活と両立できるのか?社会的・政治的権力を持っている少数の人々の誠意の糸は、国の名の下に犠牲になった何千もの命と両立できるのだろうか。国家のために死ぬということは、切実な愛国心なのか、それとも戦争の愚行と至上主義の精神病の中で育つ個人主義の嘲笑なのか?
 生者と死者の間を隔てる銀杏の木が裸になり、金色の葉が空中を舞うのを静かに見守っている。その下には、輝く木に再びつくことのない落ち葉が渦を巻いている。蓮の花びらを絡ませた石の墓の深い静けさが、寺の入り口の赤松の静けさに伸びている。失われた顔、揺れ動く魂、悲しみと孤独の中で慰める声ももう聞こえない。溝から抜け出して、愛する人のもとに帰る」という、愚かな希望の光は、「浩さんは、あがれない」という慢性的な苦悩の中で、かすかにかすんでいく。母の愛、恋人の信念、孤独に倒れた荒涼とした人生が、墓の厳しさにぶつかった菊の繊細な香りの中にしみ込んでいる。白菊の静かな贈り物の中で、愛と戦争の謎をたどる先祖の忘れられた道、埃をかぶった日記のページ、愛の儚い継承を記念する純粋な美しさ。
 絶対的な静寂とは、まったく動きがないことだと考えるのは間違いです。広大な静寂の中で一つのものが動くとき、その先にある静寂を感じることができるのです。
 旅順での友人の死に狼狽した遺伝伝染病の研究者である語り手は、喪に服す過程を記録し、川上家の遺伝的な叶わぬ恋の道筋をたどる準科学的進化心身論を打ち立てながら、結ばれた愛の断片を探っている。
 兵士は戦争の一部であり、また「日本の魂」の純粋な産物である......サラリーマンは国家の役に立たないし、ジャーナリストも芸者も、そしてもちろん私のように本に鼻を突っ込んで生きている人間もそうだ ヒゲを伸ばし、浮浪者と間違われそうな生きたモニュメントだけが、絶対に必要なのです。彼らは日本の精神であると同時に、人類に共通する精神を体現しているのだから。
 漱石は、戦争の最大の宿命である「兵士」を読者に思い起こさせる。一国の代表的な精神であり、人類の精神であり、「戦争の純粋な産物」であり、悲惨な戦争の後遺症の主な担い手である兵士の価値を説明し、戦場の内外で勇敢に戦う人々に最大限の敬意を表しています。なぜ、土地の勝利よりも兵士を尊敬すべきではないのか?そして、残された遺族が生涯苦悩し続けることに、なぜ敬意を払わなくてはならないのだろうか。辛い思い出の一片でも流してくれる嫁の可能性に憧れる浩さんの母。人ごみの中で日焼けした顔を探す愛すべき友人。愛する人の到着を心待ちにする多くの希望に満ちた心。凱旋旗が振られようと、駅にたどり着こうと、無情の溝に永遠の安らぎを見出そうと、兵士たちの価値は、戦場での精神修養、想像を絶する忍耐の限界、犠牲の大きさに感嘆し、気高さを増すのです。
 ......戦争の叫びには、人間らしさは微塵もない。戦争の叫びは "ああ!"なのだ。戦争の叫びには、皮肉も常識もない。善も悪もない。操作の試みと同様に虚偽もない。最初から最後まで、ただ "ああ!"なのだ。その感動が結晶化し、爆発し、四方八方に衝撃波を放つ、それがこの "Aaah!"を共鳴させる。バンザーイ!」「助けて!」「殺してやる!」というような不吉な予感はないのだ。つまり、「ああ!」は心、「ああ!」は魂、「ああ!」は人情、「ああ!」は真理なのである。
「バンザイ!」の高揚感は、新聞の勝利の見出しの向こうに浮かび、喜びの感動は、息子の涙の温もりに撫でられる母親の溢れる心にまで波及している。死の必死の孤独と苦悩が、「千年生きられますように!」というたった一つの感動にかき消される。そんな極端な宣言の冷静さが、戦意喪失の死語に蒸留されている。何万人もの兵士が同時に発する単純な言葉の底知れぬ大きさは、自由世界と戦争地獄の間で生死を分ける千鳥足の真実を結晶化した不吉な予兆の感覚を爆発させるのである。味覚の遺伝』は、漱石が書いた唯一の反戦テキストであり、日本が近代国家として成熟していることを確認する一方で、個人主義を犠牲にして主権者としての優位を求めるエゴイスティックな飢餓感を稚拙に表現しているのである。日露戦争(1904-05)で日本は戦勝国となり、世界の大国の仲間入りをした。この戦争で、日本は戦勝国となり、世界の大国の仲間入りをした。縛られた文明の中で、自然の真情に共鳴する戦争の叫びの特異性は、日本の文学界を支配する多くの反戦の声を高めた。その中で、最も大きなデシベルを発していたのが、歌人・与謝野晶子(1878-1942)の反戦歌である。晶子は、当時日本軍として旅順で戦っていた弟の宗一に捧げた、個人的な苦悩からくるものであった。漱石自身の反戦への思いが、圧倒的なまでに心に響く詩となっている。

君死にたまふことなかれ (1905年)
ああ、私の兄弟よ、私はあなたのために泣く。
最愛の人よ、あなたは死んではいけない
最後に生まれた君
そして、最も大切にされている
私たちの両親は、あなたに剣を握ることを教えたのでしょうか?
他の人を殺すために?
24歳まで育てられたのか?
殺人を犯し、そして死ぬために?
老舗の主人であるあなたは
商人の町 堺で
父の名跡を継ぎ
愛する者よ、死んではならぬ。
あなたには関係ないでしょう。
旅順の城壁は崩れるか、それとも立ち続けるか?
なぜ気にする必要がある?
そんなことは商家の掟にない。
愛しい人よ、あなた、死んではいけない
我らが偉大なる皇帝が
その不思議な心はとても深く
自ら戦わずして
しかし、他人の血を流すことを求める。
獣のように死ぬこと
そして、その死を栄光と思うのか?
ああ、私の兄弟、あなたはいけません
戦争で死ぬ
父は去年の秋に亡くなりました。
悲しみに暮れる母が直面したのは
あなたが徴兵される苦痛
一人で家庭を守ることになったこと。
この偉大で平和な治世の中で
白髪が増えた。
若くて可愛い新妻が横たわり
店のカーテンの向こうで泣いている。
あなたは彼女を忘れてしまったのですか?彼女のことを思っているのか?
ましてや結婚して10ヶ月足らずで。
彼女の乙女心を考えてみてください
あなた以外に、ああ、いったい誰が彼女を頼れるというのでしょう?
愛しい人よ、あなたは死んではいけないのです
** この詩はJanine Beichman博士によって翻訳され、'The Columbia Anthology of Modern Japanese Literature'から抜粋されたものである。コロンビア現代日本文学アンソロジー:1945年から現在まで(アジア現代文学シリーズ)(第2巻)』より抜粋)
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☺☺ エドワードに大喝采! なぜなら、彼の貴重な贈り物(本書)がなければ、本書を読み、再び夏目漱石の輝きに浸るのにかなりの時間がかかっていただろうから。

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

 インド、ボンベイのPrajさんのレビューは割とシンプルに反戦小説、戦争の悲惨さを描いた作品だと見做しているようですね。浩さんが死ぬ場面など日本語ではかなりユーモラスに描かれているのですが、そのあたりのニュアンスは伝わっていないようです。それにそもそもタイトルの『趣味の遺伝』の話が見えていませんね。ただかなり長文で感想を述べているので、感動したのでしょう。

 このように海外では色んな受け止め方があるのですが、そこには表紙のデザインなどの影響もあるのかもしれません。↓のデザイン夏目漱石の本の表紙としては日本だとあり得ないですよね。いや、乃木坂版なんてのもあるから、ありちゃありか。

 これは夏目の作品の中でも弱い部類に入るもので、何かもっと大きくて良いものの始まりのような気がするからです。悪くはないのだが、ひどく短く感じる。
 「趣味の遺伝」は、日露戦争についての語り手の思索と、日露戦争で死んだ友人との思い出を、1週間ほどでさらっと書いたものである。まさに反戦小説であり、それは賞賛に値する。夏目はそれをリズミカルにいろいろと頭に叩き込んでくるので、パンチが効いていていい感じ。小説の後半(短いので本当は小説なのだが)は、死んだ友人の墓に花を供えるのを見た語り手が、その美しい少女の行方を追うという話である。この部分をもっと長くすれば、夏目はもっと輝くことができただろう。愚かな戦争によって断ち切られた愛の物語である。
 しかし、この作品はマニアックな完成度の高い作品である。

 米国の作家J.M. Hushourさんの見立てはパンチが効いていていい感じだそうです。この部分をもっと長くすれば、夏目はもっと輝くことができただろう。と作家目線で書いています。そこじゃないんだなーと感じますが、みなさんどうですか。主題は『趣味の遺伝』なんですよね。そこがJ.M. Hushourさんにも見えていない感じですかね。

 「もしかしたら、将軍は生まれつき顔が黒ずんでいたのでは?しかし、遼東半島からの風に耐え、奉天の雨を経験し、蜀河の太陽に焼かれた人の多くは、出発した時より肌の色が濃くなって帰ってくるのである。もともと色白の人は、より褐色になる。ヒゲも同じだ。黒いヒゲの持ち主が前線に出ると、白いヒゲが数本出てくるのだろう。初めて将軍を見る者は、以前の将軍と今の将軍とを比較する術がない。恐らく、日夜、心配そうに数えていた妻や娘たちは、その姿に驚いたことだろう。戦争は、人を殺さないときは、人を老けさせる。将軍は非常に痩せていたが、その痩せ具合は、これまでの苦労があったからかもしれない。ただ、身長だけは出征前と変わっていない。私のように本に鼻を突っ込んで生きている人間は、世間から隔絶された仙人のようなもので、職場の向こうで何が起こっているのか、何も知らないのである。だからといって、ふだん新聞を読んだり、戦争についての自分の考えを詩的に表現したりすることはない。しかし、想像力には限界があり、新聞はどんなに毎日、表から裏まで熱心に読んでも、結局は紙くずになる。だから、戦争が起きても、それが本当に起こっているような気がしないのである。偶然にも駅に押し寄せた群衆の中にいたのんきな私にとって、最も印象的だったのは、あの日に焼けた顔と霜に染まった髭であった。私は戦争をこの目で見たことはないが、結果が目の前をいそいそと通り過ぎたとき、正確には結果の断片が、しかも生きた断片が、その影響で満州の平原での戦闘後の光景が、私の心の中にはっきりと見えたのである。」と言った。
"それで、私はどうしたらいいのだろう?" 私は、墓を前にして問題を反省し、自問した。浩さんは昨年11月に塹壕に飛び込んでから、一度も出てきていない。私がいくら川上家の墓を棒で叩いても、素手で揺すっても、浩さんは塹壕の底で眠り続けるのだ。こんな美しい女性が自分の墓にやってきて、こんな美しい花を持ってきたということも知らずに、彼は眠り続けるだろう。」
第二次世界大戦中に再発見されたのだろうか。

 Eadweardさんは感想というより引用ですね。第二次世界大戦中に再発見されたのだろうか。と書いているということは作品の説明って届いていないんですかね。検索すれば出てくるのに。でもなんとなく解ります。私も『趣味の遺伝』を最初に読んだとき、こんなものを書いて漱石は大丈夫だったのか、逮捕されなかったのか、と思いましたもん。


 短い本で、私の注意をひきつけ、何が起こっているのかよく読み取れないという理由だけで、私の注意を失うことになるのです。もっと時間をかけて理解できればよかったと思います。

 カリフォルニア州カンプトンビルのMargaretさんは、ある意味前の二人より読めています。第二章の話者「余」が戦場に臨場するところは混乱して当然、混乱しなきゃ嘘ですよ。

 この手法、他には村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』でしか見た記憶がないんですね。近代文学ではまず使われない手法です。新人賞応募作で使うとまずミスと受け取られて落選するでしょうね。面食らわない人はむしろそのことに気が付いていないということですよね。

 真面目な話をしますとどうも漱石には本当に真面でないところがあって、それでこんな手法が使われたのではないかと私は考えています。そのあたりの話は根拠を示して次に書きますね。

 第1章、第2章は美しい文章で、特に「魅惑のイチョウ」の葉が落ちることで寺に静寂が訪れる様子を細やかに描写するシーンは素晴らしかったのに(私は1ページ以上の美しい描写に弱いんです、ごめんなさいナ)、最終章は急いで書いたのか、唐突に終わってしまいました。(戦争が煩わしいから「ナウンシヤミング・パグ・イビッ」の長大な物語に突入するつもりはないと作者は明言しているが、戦争ラブストーリーがあれば、もっと読み応えのある小説になった可能性があったと思うと、残念で仕方がない。要するに、ナカビチン。
2020年3月18日のこと。午後8時50分 勉強机の上。今夜は早く眠れそうです ハートアイの絵文字

 naunsiyaming pag-ibigはタガログ語で9番目の愛を意味するらしく、「ナカビチン。」もタガログ語でwith the endの意味だとすると、最後は「ただただ残念である。要するに、ラストで」みたいな感じでしょうか。役に立たんぞDeepL。

 しかし英語にタガログ語を混ぜるKim (moonscapist)さんは、フィリピン系アメリカ人ということなのかしらん。「魅惑のイチョウ」の葉が落ちることで寺に静寂が訪れる様子を細やかに描写するシーンは素晴らしかったとありますが確かに漱石の風景描写って見事ですよね。構図がしっかりしていて、


 墓場の入口には化銀杏がある。ただし化けの字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱えもあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振って、から坊主になって、野分のなかに唸っているのだが、今年ことしは全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金の雲が、穏やかな日光を浴びて、ところどころ鼈甲のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊が風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳して遊んでいるように思われる。閑静である。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 このシーンですね。確かに旨い。戦争ラブストーリーがあれば、もっと読み応えのある小説になった可能性があったと思うと、残念で仕方がない。というのはやはりJ.M. Hushourさんのこの部分をもっと長くすれば、夏目はもっと輝くことができただろう。と同じく通俗性を求める意見ですね。本当にそこじゃないんですけどね。戦争で引き裂かれた多男女の話ってそんなに読みたいですかね。もうこすられまくって擦り切れていませんか。

「草枕」「坊っちゃん」と同じ年に書かれたとは思えないほど。非常に言葉が多く、繰り返しが多く、漱石の他の作品のような気品に欠ける。この偉大な作家をよりよく理解すること以外には、あまり意味がない。

 タイ、バンコクのKyle Dさんは、冒頭の戦闘シーンがお気に召さなかったのかしらん? 気品に欠ける。というか戦争ですからお上品ではないですよね。繰り返しが多く、というのも意外な印象ですね。日本語だと「草枕」はかなり凝った文体で「坊っちゃん」はかなり読みやすく『趣味の遺伝』はまあ、両方混ざった感じかなと思いますが、実際にグーグル翻訳してみた時、「黒繻子の帯」「二百石取りの侍」「慷慨家」「黒紋付に八王子平」などそのまま訳せない語がたくさんあるのと、

 メンデリズムだの、ワイスマンの理論だの、ヘッケルの議論だの、その弟子のヘルトウィッヒの研究だの、スペンサーの進化心理説だのと色々の人が色々の事を云うている。そこで今夜は例のごとく書斎の裡うちで近頃出版になった英吉利のリードと云う人の著述を読むつもりで、二三枚だけは何気なくはぐってしまった。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 ……みたいに専門知識を要する部分があるのとで、確かに読みにくいんだろうなという感じはしたのですが、それで言えば『草枕』も『坊っちゃん』も同じことで、

自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。いたずらにこの境遇を拈出するのは、敢えて市井の銅臭児の鬼嚇して、好んで高く標置するがためではない。ただ這裏の福音を述べて、縁ある衆生を麾くのみである。(夏目漱石『草枕』)

 なんてどう訳すのDeepL君

It's not that I don't like it. It is not for the purpose of intimidating the copper-smelling children of the city, but for the purpose of elevating them. The only thing I want to do is to tell you the gospel of the past and command you to help sentient beings.

嫌いなわけではないんです。銅の匂いのする子供たちを威嚇するためではなく、彼らを高揚させるためなのだ。ただ、過去の福音を伝え、衆生を助けることを命じたいのである。

 おいおい、随分端折るな。


 私の最初の夏目は、息子か孫が先祖からあるタイプの女性に惹かれることを受け継ぐという筋書きを期待して読みました。あるいは、トマス・ハーディの「青い目のカップル」の別バージョンで、ある女性、その娘、そしてその孫と恋に落ちるという楽しい体験談(想像上のことだが、急いで言おう、レビ記18章17節を思い出してほしい)であった。しかし、これは前者に近い。ただし、受け継がれるのは味覚ではなく、Xの祖先とYの祖先の間の実際の魅力であり、Xの子孫とYの子孫の間で繰り返される。この物語は、近代科学の理論に関心を持ち、最新であることに関心を持つ男が、1905年の日本では男女間の社会的関係が西洋のように「進歩」していなかったことを現実化し、やや恥ずかしく思っている--彼の言葉だ--ことによって、語られた。私が求めていたものよりもはるかに微妙であり、それゆえ、私はこの作品に戻らなければならない。語り手は根津ではない--根津は語り手の近代的・科学的志向と、1905 年の日露戦争への熱意の欠如という自戒を、ある種の皮肉をもって扱っているのである。注)本書は、批評家が望むような単純な「反戦小説」ではない。

 中国生まれのライター、編集者、メディア事業家(ワシントン、ニューヨーク、ボストン)、英語教授(ボストン)のSam Schulmanさん、すごいぞ。ほぼ完ぺきじゃないですかね。

 だって私の最初の夏目は、ってありますよ。この人だけですね、ちゃんと筋が解っているのは。息子か孫が先祖からあるタイプの女性に惹かれることを受け継ぐ、受け継がれるのは味覚ではなく、Xの祖先とYの祖先の間の実際の魅力であり、Xの子孫とYの子孫の間で繰り返される。はいはい、この奇妙な着想が理解できていないと『趣味の遺伝』を読んだことにはなりませんからね。

 1905 年の日露戦争への熱意の欠如という自戒を、ある種の皮肉をもって扱っているのである。注)本書は、批評家が望むような単純な「反戦小説」ではない。いや、文句なしです。恐れ入りました。


 漱石の作品としてはあまり知られていないが、『味覚の遺伝』は1904年から1905年の日露戦争終結直後の1905年12月に執筆され、1906年1月に雑誌に掲載された。この小説は、彼の唯一の反戦的作品とされ、探偵小説のようでもあり、恋愛小説のようでもある。これまで読んだ漱石の唯一の作品である「吾輩は猫である」よりも、より親しみやすいと感じた。

 アメリカのAndres Eguigurenさんは探偵小説のようでもあり、恋愛小説のようでもある。と受け止めたんですね。で、より親しみやすかったんですか、そうですか。難しくはなかったんですかね。

 新橋駅のシーンが印象的で、読んでいて日本帝国陸軍の誇りにかけてバンザイと叫んでしまいその後の展開が真逆の感覚になってしまった。結末はダラダラしていて、早く終わらせたい感じ。読み応えがある。

 マレーシア・プチョン市のLeng Fsさんは、このレビューで星四です。マレーシアだから日本びいきなんですかね。日本帝国陸軍の誇りにかけてバンザイと叫んでしまう人は、もう日本ではなかなか見かけませんからね。

 前半と後半が全く違う感覚というのはその通りですね。結末はダラダラしていて、早く終わらせたい感じ。うーん、そうですか。まあ『坊っちゃん』なんかに比べれば間延びしていますかね。


 この本は(210日目と並んで)1年近く、私の本棚できれいに休んでいました...いつも読むべき本がもう1冊あるのです。20世紀初頭の本が20世紀末の本と競争するのは大変だったんでしょうね。この日本文学チャレンジ3は、私に読むことを促してくれるので、本当にありがたい。
 味覚の遺伝味覚の遺伝は、1906年に夏目漱石によって作られた。原題は「Shumi no Iden」。漱石の戦争への思いがわかるのは、この本だけだと言われている。「漱石の唯一の反戦文学であり、ある意味で明治社会における反逆者である」とスティーブン・W・コールの紹介がある。1904年から5年にかけての日露戦争である。
「味覚の遺伝』は100ページ足らずの本だが、読み終えるのに2日かかった...古典文学を読み慣れていないため、頭で理解するのが少し難しく、意味を理解するためにある段落を読み直す必要があることもあった。しかし、ストーリーを理解するにつれ、だんだんと理解しやすくなり、美しい女性が登場すると、ストーリーはさらに面白くなりました。
 物語は、最初から最後まで、名前も知らされない「私」中心の登場人物によって語られる。新橋駅にいたとき、彼は大勢の人がいるのを見た。それは、戦争から帰ってきた家族を迎える群衆だった。その中に、戦死した友人によく似た青年がいた。その青年を母親が出迎えた......その出来事から、彼は友人のことを深く思い出すのである。

 コウさん、川上弘一は、ナレーターのヒーローだった。そのリーダーシップと冷静さ、そして前向きな姿勢のすべてを、彼は甲さんに憧れた。そして、こうさんが一度も溝から抜け出せなかったこと、母親がこうさんを迎え入れる機会がなかったことを思い出した。漱石はこの一文を何度も繰り返し強調し、勝利のために必要な代償を示した。前半は、戦争と、戦争が残された人々に与えた残酷さを語っていたが、後半は、戦争と、戦争が残された人々に与えた残酷さを語っている。
 その若者の姿を見て、彼は寂光院にある甲さんの墓を訪ねることにした。すると、こうさんのお墓に、とても美しい女性がいるのが見えた。この女性は、彼にとって謎であり、自分にとっても、こうさんの母親にとっても、解決しなければならない謎であった。その謎は、彼の「味覚の遺伝」という理論によって解かれた。
 この本を読み終えて言えることは、「わあ、この本は美しい」ということだ。最初はゆっくりとした展開でしたが、最後は美しく締めくくられました。私はこの本を4つ星にします(本当に好きなんです)。

 Novia Rozetさんはラルクアンシエルと亀の好きな作家さんです。それにしてもどうしたDeepL、訳がちょっと雑になっているぞ。前半は、戦争と、戦争が残された人々に与えた残酷さを語っていたが、後半は、戦争と、戦争が残された人々に与えた残酷さを語っている。これ違うだろ、めんどくさいから直さないけど。

 「わあ、この本は美しい」ということだ。最初はゆっくりとした展開でしたが、最後は美しく締めくくられました。は翻訳のテイストなのかな。日本語だとそれほど美しいという感じではないですよね。

好きな人の味(似顔絵)や特徴は、次の世代に受け継がれるというのは、この物語の面白いテーマです。

 Henrikhusさん、そりゃ題名だけで描けるレビューですがな。

 全体を見回してやはりSam Schulmanさんのレビューが頭一つ抜け出ていますね。初見でこれだけ読めるとしたら凄いことです。正直、私は初見では筋が追えませんでした。

 ただ皆さん繰り返しますがこの『趣味の遺伝』に出てくる新橋の停車場は今の新橋駅とは別ですからね。ご注意を。
















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