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三島由紀夫論2.0

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2024年5月の記事一覧

誤り、抜け、漏れ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む67

誤り、抜け、漏れ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む67

 手短に言えば、夏目漱石の『こころ』が読めないものに三島由紀夫作品が読めるわけがない。平野啓一郎は確かスローリーディングとか言いながら夏目漱石の『こころ』を読んでいた筈だが、「私」と何某が何を呑んだのか、先生がKの頭をどの高さまで持ち上げたのか、あるいはまた鎌倉での海水浴で「私」と先生がどんな格好だったかといった細かい点を理解してはいないだろう。石原慎太郎が「物凄い」と言った三島由紀夫の凄みはそう

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もう少し勉強した方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む66

もう少し勉強した方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む66

タイで広東料理

 
 五井物産の支店長は本多を広東料理でもてなす。

 そういえばインドのホテルではベーコン・エッグを食べていた。

 まだインド料理やタイ料理など日本人がほとんど口にする機会さえなかった時代のことではあろうが、そこにはタイ料理を一段低く見做す、差別意識のようなものが現れていまいか。

 このことは本多の後のジン・ジャンに対する態度の中にも現れるかもしれないので、順番的にここに書

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日本人の醜さ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む65

日本人の醜さ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む65

七歳なら自分でできる

 

 本多にはやはり、危険な匂いが漂う。

 七歳の姫のおしっこを手伝いたいとは、いささか不埒な認識者ではないか。一体どこを認識しようというのか。おしっこの後はどこを拭こうとしているのか。この本多の奇妙さについて平野はまだ触れようとさえしていない。たしかそれはどこにも書いてなかったはずだ。

 七歳なら抱えあげなくとも自分でおしっこはできるだろう。

 この後姫は裸になり

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平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④

平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む64兼 芥川龍之介の『西郷隆盛』をどう読むか④

 芥川龍之介は平野啓一郎に何が言いたいのであろうか。

 金閣寺は天皇である?

 書かれている範囲では決してそうは言えないのだと芥川龍之介は平野啓一郎に言いたいのではなかろうか。勿論芥川は平野を名指ししていない。しかしここで言われているロジックは恣意的なものではない。一つの仮説を前提にしてしまうような、そうしたすべての言説は芥川の批判から逃れられない。

 少なくともそこを胡麻化して四千円近い本

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菱川の正体 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む63

菱川の正体 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む63

菱川の正体

 平野が菱川を三島の「自己戯画化」と見做している点に関しては既に述べた。しかしその醜さが何ゆえのものなのか、『鏡子の家』ではお互いが干渉しないように平和に棲み分けられていた三島由紀夫の分身が何故衝突せねばならないのか、突き止めてはいないように見える。「贋物の芸術家」「実作をせぬ芸術家崩れ」と罵られているのが三島由紀夫自身であるとするならば、杉本清一郎と山形夏雄は何故罵り合わなかったの

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根拠もなく文章がまずい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む62

根拠もなく文章がまずい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む62

根拠は何か

 

 三島はなぜ、あのような死を選んだのか――答えは小説の中に秘められていた。……こう宣伝されて売られている本が仮にあったとする。それならばその本には「三島はなぜ、あのような死を選んだのか」という問いの答が書かれていなければならないと考えるのは当然のことである。つまり生首の根拠が書かれていなければならない。

 では実際はどうか。

 末げん、村田英雄、編集者すっぽかし、中古のコロ

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贋物の批評家は贋物の批評家に気がつかない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む61

贋物の批評家は贋物の批評家に気がつかない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む61

  時々本物の作家は何十年も先の未来を見越して、おおよそくだらない批評家に渇を喰らわすことがある。夏目漱石が蓮見重彦にそうしたように、三島由紀夫は平野啓一郎に、「バンコックの寺は七百あつた」と言ってみる。

 金閣寺が天皇なら、この大理石寺院(ワツト・ベンチヤマポビツト)はハラーマ八世なのかね?

 三島由紀夫ならそう問うのではないか。
 この時ラーマ八世、アナンダ・マヒドン陛下はスイス留学中、第

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頑張っていた 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む60

頑張っていた 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む60

三島の戦後

 この文章には正しい点が一つもない。『金閣寺』における金閣寺は絶対者でもなく天皇でもない。寺はたくさんある。明治天皇は寺と縁を切った。天照大神は伊勢神宮に祭られている。伊勢神宮は金閣寺ではない。金閣寺は天皇のアレゴリーとしては描かれていない。平野は金閣寺が天皇の比喩であるという仮説をいつのまにか前提にして『金閣寺』を読んでしまい『金閣寺』を天皇との一体化を断念する話として読んでしまっ

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禍津神? 三島由紀夫の『神の湾(いりうみ)』をどう読むか①

禍津神? 三島由紀夫の『神の湾(いりうみ)』をどう読むか①

  三島由紀夫の『神の湾』は恐らく戦前に書かれた作品で書きかけである。途中で終わっている。ただここには三島独自の世界観が見られることから、少し確認しておきたい。

 まず禍津神の読みは普通「まがつかみ」である。「び」と読む字がない。従ってここで三島が意識しているのは「禍津日神」であり「まがつひのかみ」である。

 天上の男神の領国に、物静かな神々が生んだ幾柱かの禍津神を住まわせるというアイデアは『

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説明になってない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む59

説明になってない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む59

 平野啓一郎は日本一の作家である。塙保己一くらい優れている。ハンサムであり、優雅である。しかし平野啓一郎の『三島由紀夫論』は間違っている。残念ながら。

 平野啓一郎の『三島由紀夫論』の良い点は、「右翼のキチガイの新古典派作家?」と見下されていた三島由紀夫を、五十年ぶりに再評価しようという心意気にある。

 悪い点は三島由紀夫の作品を全然理解できておらず、三島由紀夫の思想も全然理解できていないとこ

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文体の違い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む58

文体の違い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む58

※右昭和天皇左秩父宮

 それにしても驚くのは、平野啓一郎が『英霊の声』において、川崎君や木村先生の嘘か芝居、この帰神の儀式の真実性を欠片も疑うそぶりを一切見せないことだ。

 大丈夫なのかね?

 それで本当にいいのかね?

 いや、あなた自身に訊いているんだよ。

 それで本当にいいの?

 三島由紀夫の『英霊の声』において明確に欠けているのは、彼らの声が真実であるという証拠、例えば彼ら以外に

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太宰を読め 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む57

太宰を読め 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む57

 ※その前に↑を読め

変革の思想

 この理屈は磯部浅一一等主計にちなんで言われたもののようだが、実は何度読み返しても良く解らない。一見天皇が変革のダイナモのような言われ方をしているように見えなくもない。しかし二・二六事件の首謀者の全体意見からはそうした天皇の位置づけは見えてこないからだ。
 平野啓一郎も「三島由紀夫はこう書いている」という表層的な理解はしている気配はあるもののその意図を捉えきれ

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ほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまり 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む56

ほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまり 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む56

何度目かの「天皇とは何か」

 

 平野啓一郎は一度だけ神であるべきであった。三島由紀夫論を書こうとしたとき、その一度だけで良かった。しかし実際、平野啓一郎は人間のまま、小学生並みのずさんな読みで三島由紀夫論を書いてしまった。この責任を彼は一体どうとるつもりなのであろうか。

 このことは結局どうにもならないのではないかと私は疑っている。彼は死ぬまで何事もなかったようにしらばっくれるのではなかろ

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誰にも間違いはある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む55

誰にも間違いはある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む55

軍人勅諭とは何か

 それはむしろ「『豊饒の海』論」の瑕疵であるのだが、『英霊の声』のこんなところを再読するとやはり宮城に尻を向ける飯沼勲の不敬がはっきり見える。

 ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊は、現人神たる天皇陛下の馬前で死ぬことを願っていた。「現人神」に尻を向ける飯沼勲とは大違いである。

 飯沼勲の天皇は「現人神」ではなく日輪に変わっていた。この「変化」というのはニ・二六事件で処刑

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