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頑張っていた 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む60

三島の戦後


 そして、三島自身は、『金閣寺』で描いた通り、〈絶対者〉(=天皇)との一体化が最早不可能であると断念したからこそ、戦後のニヒリズムを受け容れて「生きよう」と決断したはずだった。にも拘わらず、今更、大衆化を通じて天皇と国民とが睦み合っているなどという状況には耐えられようはずがなかった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この文章には正しい点が一つもない。『金閣寺』における金閣寺は絶対者でもなく天皇でもない。寺はたくさんある。明治天皇は寺と縁を切った。天照大神は伊勢神宮に祭られている。伊勢神宮は金閣寺ではない。金閣寺は天皇のアレゴリーとしては描かれていない。平野は金閣寺が天皇の比喩であるという仮説をいつのまにか前提にして『金閣寺』を読んでしまい『金閣寺』を天皇との一体化を断念する話として読んでしまっていることになる。一個人がそういう解釈をすること自体は責められることではないが、作品論としては完全に間違っている。

 この時点の三島の天皇観は〈絶対者〉などではなく、比喩であり、存在しないものである。『金閣寺』は自分を特別に選ばれた存在であると思い込みたい不自由な凡庸さに屈折した青春の徒爾を描いた話である。
 言ってみればそこにはニヒリズムは見えた。

 しかし平野啓一郎の言うような「戦後のニヒリズム」というものは『金閣寺』が書かれた当時よりはるかな後、『鏡子の家』以降に改めて回想されるものである。改めて思い返したところから生まれた記憶で、その瞬間に掴めていた感覚ではない。

 どうも『盗賊』から『仮面の告白』にかけての時期の三島は作家として世に出るために必死で、職業作家たるべく長篇小説と格闘していた感がある。傑作が一つ書いて残せばそれでいいという求道精神では決してない、小説で金を稼ぐのだという意気込みが確かに感じられる。レーモン・ラディゲにはなれなかった。芥川が短編小説しか書けずに苦労していたことをよく知っていた。だからプロの作家であるために『盗賊』から『仮面の告白』にかけての期間には既に長いものを書いて生きる覚悟があったと見える。

 何なら『仮面の告白』には『禁色』(昭和二十六年~昭和二十八年)につなげるための商売上の仕掛けがある。伊東静男に俗物と言われるわけである。三島は「戦争を我が事と捉えられない性的人間、しかも不能者」を女に置き換えて『愛の渇き』(昭和二十五年)を書いてみる。

 しかもよく勉強して書いている。『潮騒』(昭和二十九年)も良く取材して書いている。これは平野啓一郎が『葬送』を書くために「捜査本部」みたいに壁に資料を張り巡らせたのと同じで、『愛の渇き』から丁寧な創作ノートが積み上げられていくことになり、基本的にほとんどの長篇小説はお勉強で書かれた。

 プロットの積み上げなしで長篇小説を書く村上春樹のような作家もあるが、より具体的な事物、固有名詞、その土地の特徴などのちょっとした細かいことが書かれていないと話がスカスカになり、リアリティがなくなるということがある。三島由紀夫はその点、しっかりした長篇小説を書くためにお勉強にこだわった。

 この二つの田舎小説は実に面白く仕上がっている。これが都会小説なら薄っぺらになったかもしれないが、取材力が効いて「豊か」な小説になっている。この『潮騒』などに関しても「最後の言葉」のストーリーを汲めば

①『潮騒』を書いたあと理性ですべてを統御するような作家になれると思っていたところ、どうしても自分の中に統御できないものがあることに気が付いた。

②そしてロマンチストであることを認めざるを得なくなった。

 ということになる。もちろんこれはかなり後になってからの本人の弁で、作品としての『潮騒』の出来や、評価、そして本人の満足度というのは当時それなりのものであったように見える。

記者 映画になった「潮騒」についてのご感想は?
三島 よかったと思いますね。主役の青山(京子)君、久保(明)君の配役も成功だった。実は青山君は最初からいいと思っていたが、久保君は何か都会的なひよわい感じがあって、漁村の若者にはどうかという懸念があったんだが、一生けんめいやっていて成功だったと思う。ところでこんな話があるんです……「潮騒」の試写会の時にね、皇太子殿下が見えられるというんで、東宝の重役連が、お出迎えする青山君に"皇太子さまが見えたら握手しろ、しないとクビだぞ"って冗談を言ったというんだ。(笑)結局"あたし、いやだワ"ということで実現しなかったらしいがね。(笑)
記者 ではこの辺で。どうも有難うございました。  

三島由紀夫さんに聞く 〈初出〉若人・昭和30年6月 (『決定版 三島由紀夫全集 39巻』/三島由紀夫/新潮社/2004年刊/p.178)

 記者が三島の話を全く引き取らないところがなんとも面白い。
 引き取りようもない話を無理やり押し付ける三島の業の深さも面白い。  三島由紀夫のあ゛はははという誘い笑い声が脳内再生されてしまう。
 ここで皇太子殿下と呼ばれている方が現在の上皇陛下である。
 またここで登場する青山京子の本名が小林みどりであることも興味深い。
 キリスト教系高校・大学出身だけあって、皇太子殿下を全く敬わない青山の態度も面白い。
 青山は幸いクビにならず、その後も映画・ドラマと大活躍する。
 夫は小林旭である。
 それにしてもここで三島はかなり不敬である。
 仮に実際そういうエピソードがあったにせよ、わざわざ記者にする話ではない。

ただその後の流れとしては、


③このロマンチシズムは三島を十代に連れ戻してしまう。

④その流れに沿うのが『詩を書く少年』『ラディゲの死』(1954年、昭和二十九年)、である。

 ……ということになろうか。とりあえず順番としてギリギリ成立する所で考えた場合、三島の転機はこの昭和二十九年にある。

 三島由紀夫の公式見解の中では『詩を書く少年』『海と夕焼』『憂国』は最も切実な問題を秘めたものとされている。結果としてこれらの作品は、『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。つまり『花ざかりの森』と連結しているのは『詩を書く少年』『海と夕焼』である。

 三島に言わせれば『詩を書く少年』には自分が詩人になれず散文作家になった転機が書かれていることになっている。私は『愛の渇き』の時点で「取材して散文長篇小説を書く三島由紀夫」という作家が出来上がったとみている。そこでニヒリズム云々は別として「生きよう」という方向性が定まっていたことも確かだ。

 それから『金閣寺』(昭和三十一年)という観念の美が書かれることになる。そこに「〈絶対者〉(=天皇)との一体化が最早不可能であると断念したからこそ」という流れはない。金閣寺が再建されたのを見届けて、徒爾を見つけただけだ。
 むしろ神風とのすれ違いは『海と夕焼』の中に生々しく描かれており、何故神風が吹かなかったのか問題は『海と夕焼』と『英霊の声』のあいだで連結する、とみなされている。

 しかしここが三島由紀夫のひねくれているところで『海と夕焼』に天皇が現れるのではなく、問われているのはキリスト教的唯一神による奇蹟が起きなかった不思議なのである。仮にこれを神風が吹かなかった不思議のアレゴリーと見做した場合、天皇は漠然と相対化された〈神的存在〉に落ちてしまう。

 こういう公式見解と作品のロジックの不調和というのはもう少し細かく見て行かねばならないところだが、そもそも平野啓一郎は『花ざかりの森』『詩を書く少年』『海と夕焼け』『憂国』を重視していないので、この問題の詳細は別の機会に譲り、平野の論旨を見て行こう。

 平野は「にも拘わらず、今更、大衆化を通じて天皇と国民とが睦み合っているなどという状況には耐えられようはずがなかった。」と書いている。繰り返すが、これが昭和三十一年の三島由紀夫の真理であれば、『金閣寺』ではなく『英霊の声』が書けたはずである。

 三島由紀夫が週刊誌的天皇、ロイヤルファミリー的天皇を意識に昇らせ批判し始めるのはもっと後のことであったはずだ。天皇の全国ツアーの時点では文句を言っていない。週刊誌的天皇というのは皇太子妃美智子様の出現と同時に盛り上がっていたので少なくとも『金閣寺』の二年後、昭和三十三年頃から以降のことで、皇太子ご成婚のパレードのテレビ放送などに関しては三島由紀夫はうきうきとして見ており、その時点では「耐えられようはずがなかった」というニュアンスはみつからない。

 一番死に近いところいた『盗賊』の執筆時期からなんとか『仮面の告白』で生き返り、昭和二十四年から三島は散文作家として必死に生きていた。揺り戻しは昭和二十九年にあった。しかし却ってそこで散文作家たる三島が方向づけられた。

 この三島の戦後にはまだ天皇はいない。


詩人平岡公威

影響をうけた作家を年代順にならべますと、
① 北原白秋、芥川龍之介
② オスカア・ワイルド
③ 谷崎潤一郎、
④ レエモン・ラディゲ、ジェイムス・ジョイス
⑤ マルセル・プルースト

といふ順で、詩では

① 北原白秋
② フランス訳詩(堀口大学訳、月下の一群)の詩人たちと、坊城俊民兄、
③ ジャン・コクトオ、
④ アルチュウル・ラムボオ
⑤ 中原中也、
⑥ 田中冬二、
⑦ 立原道造

といふような調子でございます。

(『師・清水文雄への手紙』/三島由紀夫/新潮社/2003年/p.14)

 森鴎外がないのは、年を取るとよくなるからであろうか。

 あれ?

 あれれ?

 高村光太郎がないぞ。

十二月八日    高村光太郎
  
記憶せよ、十二月八日。

この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは彼等のジャパン、

眇たる東海の国にして、

また神の国なる日本なり。

そを治しめたまふ明津御神なり。

世界の富を壟断するもの、

強豪米英一族の力、われらの国に於て否定さる。

われらの否定は義による。

東亜を東亜にかへせといふのみ。

彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさにその爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養ひてひとたび起つ。

老弱男女みな兵なり。

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

世界の歴史を両断する 、

十二月八日を記憶せよ。

 三島由紀夫の檄文に影響を与えたはずの高村光太郎が、影響を受けた詩人ランキングに入っていない。

 高村光太郎は戦後のお勉強で見つけたもので、ねじれたロジックにりようされたものではないのか。
 

 堀氏は現在の青年作家のうちで、時局を語らない唯一の人ともいへませうか、なんといつたつてお先走りの文報連中、大東亜大会などで大獅子吼を買つて出る白痴連中より、数千倍の詩人、したがつて数千倍の日本人と思ひます。
 さし出がましいやうで恐縮ですが、貴下もどうか堀氏の御心構でやつていたゞきたうございます。そしてその究極に花咲く文学こそ、真に日本をして日本たらしめる、真の日本文学であらうことを信じぬわけにはまゐりません。

(昭和十八年、九月十四日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.181)

 過去は捏造される。

 そういうことですよ。

[余談]

 『午後の曳航』は昭和三十八年の作だ。

 父親として、非日常の海を捨て、日常性に順応しようという竜二と、その異様な否定者であり、殺害者となる少年の一団は、三十代後半の三島と、少年時代の彼自身との内的葛藤のように見える。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野はどうもこの時期に三島が死について考え始めたと考えているようだ。

「私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た。芥川龍之介より長生きをしたと思へば、いい気持だが、もうかうなつたら、しやにむに長生きしなければならない。古来の人間の寿命は、青銅時代は十八歳、ローマ時代でさえ二十二歳だつたさうで、そのころの天国は美しい若人であふれてゐたらうが、このごろの天国の景色はさぞ醜悪だらう。/人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、もう、しやにむに生きるほかはない」

(『年表作家読本 三島由紀夫』/松本徹編集/河出書房新社/1990年/p.150)

 これが昭和三十七年の初夏。この時は生きる気満々。

  うん。何か契機に欠いているな。

 それに平岡少年は近所の猫とか殺していたんだろうか。

 
 それはないなあ。それはない。『わが友ヒットラー』『癩王のテラス』『椿説弓張月』も内的葛藤なのかな?


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