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もう少し勉強した方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む66

タイで広東料理

 
 五井物産の支店長は本多を広東料理でもてなす。

 そういえばインドのホテルではベーコン・エッグを食べていた。

 まだインド料理やタイ料理など日本人がほとんど口にする機会さえなかった時代のことではあろうが、そこにはタイ料理を一段低く見做す、差別意識のようなものが現れていまいか。

 このことは本多の後のジン・ジャンに対する態度の中にも現れるかもしれないので、順番的にここに書き留めておく。

 当たり前のことながらどこで何を食うかということで思想性が現れることがある。こんなところも平野は明確に見落としている。


菱川の謝罪


 広東料理店で本多は菱川から謝罪を受ける。本多がよほどわがままで菱川に対して気難しいと思われたようで、支店長がなんとかとりなそうとしているが癪に障り、本多は一瞬怒りにかられる。が、菱川を切り捨てればますます誤解されることになる。仕方なく本多は支店長の誤解だとして菱川の案内役を止めさせることはしなかった。

 このくだりは、三島によって、

 もともと寛大すぎたがために、本多はますます寛大にならねばならなかつた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 こう強弁されているが、本多の菱川に対する態度は、力関係を意識した高圧的なもので、接待される側であることに甘えたわがままなものであっただけではなく、贋物の芸術家、芸術家崩れに対する過剰な敵愾心のようなものが見えすぎていたことは明らかである。

 三島由紀夫自身はいわゆる軟弱な文学青年が嫌いで、たまたま浅田彰がジムで三島由紀夫を見かけた時、浅田彰がたまたま原稿用紙を持っているのを見て厭な顔をしたそうだ。(西部邁ゼミナールに出ていた浜崎洋介の『三島由紀夫―なぜ、死んでみせねばならなかったのか』にそんなことが書いてあったような気がする。)

 作品の中で本多が菱川に対して寛容になれないのは、本多が文弱を嫌ったからではない。どうも本多は菱川にも松枝清顕と飯沼勲の美しさの対極にある「醜さ」というものを押し付けている感がある。

 本多を一瞬怒らせた、菱川の謝罪という交渉・駆け引きもその「醜さ」の一つだろう。結局清顕の美しさの見極めが出来なかった平野啓一郎には菱川の醜さも見えていないのであろうが、そこは本来丁寧に見て行かねばならないところであろう。

 平野は「未成熟ほど醜いものはない」と断ずる本多の理屈を「41 勲の転生」で引き取ったのち、菱川の謝罪後の変化も特に追わない。

 日本人の醜さに関しては、

 つまり、作者にとって、二・二六事件に象徴される「昭和維新」の挫折後、日本は道を誤った、と認識されているのであり、少なくとも、彼が日本の大陸進出や南進を、アジアの解放などという欺瞞的なプロパガンダに当て嵌めていなかったことが読み取れよう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ……とかなり強引にまとめてしまっている。

 まず二・二六事件の蹶起趣意書を見れば、彼らの目的は親政により国家総動員法を発令し、軍備を増強して八紘一宇の理想を実現することであり、大陸進出はむしろ昭和維新の目的と合致している。この点もう少し勉強した方がいいのではないか。

 大きな時代区分としての戦前の日本人の醜さを「二・二六事件に象徴される「昭和維新」の挫折後」と見ている点は大きな間違いでは無かろう。ただ商社の社員が「昭和維新」の挫折後に醜くなったのではなく、特に菱川で言えば、芸術家として「くずれた」ところから醜さが始まったとみるべきで、ここで言われている日本人の醜さは大きな時代区分のものであると同時に、どういうわけか酷く個人的なものであることであることを見なくてはなるまい。

 先ほどの引用部分につないで平野は、三島の反植民地支配の姿勢、南進の否定という方向でそつなく話をまとめているが、蹶起趣意書を前提にするとロジックがめちゃくちゃになっているので話を無理に大きくしないで作品に忠実に見ていくべきだった。

詩集

 大きな時代区分と個人的なものである日本人の醜さの矛盾は、「詩」で解きうるのではないか。

 菱川の謝罪後、案内された書店で、本多は自費出版らしいザラ紙の薄い詩集を手に取る。
 成功した弁護士が。

 それは革命の後に来た幻滅を英語で書き綴った詩集だった。

 誰か知らん
 未来に捧げし青春の贄のうちに
 生ひ出づるは腐敗の蛆のみ

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

  本多はこの詩集に心を搏たれる。

 勲は久しく夢みた維新を成就することなく死んだが、よし維新が成つても、そのとき彼がいやまさる絶望を感じたことは疑ひがない。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 平野は「二・二六事件に象徴される「昭和維新」の挫折後、日本は道を誤った、と認識されているのであり」と書いている。「二・二六事件に象徴される「昭和維新」の挫折したために日本は道を誤った、と認識されているのであり」とは書かれていない。ただここでは維新が起ころうが起こらまいが日本は勲を失望させただろうと本多は指摘していないだろうか。少なくとも日本人が醜くなったのは維新が成らなかったからではない

 そして成功した弁護士が詩を読んでいることの歪さに気がつけば、戦前とは三島由紀夫にとって詩人の時代だったことに思い当たる。例えば醜くない日本人とは詩人・平岡公威のことでもあっただろう。


病理学的自殺


 ただし本多の屁理屈は自死を巡って鬱陶しく考察され、とてもよそ見を許さない。

・成功しても失敗しても死ぬのが勲の行動原理
・維新の後の幻滅を見てから死ぬのと、その前に死ぬのと比べて選び取るすべはない
・先見の命ずるままどちらかを選ぶしかない
・勲は清い叡智を含んだ先見により幻滅を見る前に死んだ

 しかし、革命に参加して、その成功したのちに襲はれる幻滅と絶望の、月の裏側をつらつら眺めてしまつたやうな感懐は、たとへそこで死を求めても、その死をば、死にまさる荒涼からのがれるだけのことにしてしまふかもしれない。又そこではどんなに真摯な死も、ただものうい革命の午後に起こつた、病理学的な自殺と思はれることを避けがたい。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ここで死ぬ予定のまるでない本多は名もなき革命家にして詩人の死を確信している。

 しかしよく読むとが死んだという事実はどこにも示されていないのである。私がこのさして間違いとも言えない理屈を屁理屈と読んでみた理由はそこにある。この詩人は生きていて、今では得意の英語力を生かし、日本の商社と取引している醜いタイ人なのではないか?

 あるいはこの詩を書いたのは実は菱川なのではないか。

 それくらい意地悪く反論したくなるほど、本多の解釈は強引なのだ。

 勲は少なくとも日輪を夢みて死んだであらうが、この死の朝は亀裂の入つた太陽の下、膿ただれた傷口をひらいてゐた。

(三島由紀夫『暁の寺』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 勲が死んだのは夜である。この本多の感想は『奔馬』を読まないと言えないことだ。さらに「この死の朝は亀裂の入つた太陽の下、膿ただれた傷口をひらいてゐた」とは、政治詩に対する感想としてはいささか詩的に過ぎる。

 そしてこの後勲の死に関する屁理屈がしばらく続く。その内容を細かく見ていきたいのだが、その前に一つ、三島自身の最悪な死に方の可能性に関して述べて今日はいったん終わりとしたい。

 三島由紀夫はなぜあのような死に方をしたのかと考えた時、「あのような」が意味する、状況の特殊性の確認が必要になる。それは、

・市ヶ谷の自衛隊駐屯地で
・無理な腹切りを呼びかけ
・七生報国の鉢巻を巻いて
・切腹してさらし首になる

 ……ということになろうか。そしてこの「あのような」の意味を確認するために、では例えばほかにどのような選択肢が考えられるか、となかった現実に思いを巡らしてみたとして、

・谷崎潤一郎のように大三島になる
・『天人五衰』の本多のように老醜をさらす

 という可能性はすでにほぼなくなっていた、と言えよう。何も行動をしなければ三島由紀夫は森田必勝に殺されていた筈だからである。
 そして革命の成功の後の幻滅後の病理学的自殺という可能性もなくなっていた。たまたまではあるが『奔馬』の勲たちのように、軍(自衛隊)の協力は求められない状況にあり、計画はテロに縮小せざるを得なかったので「革命の成功」は到底考えられなかった。すると一番現実なのは、

・しびれを切らした森田に殺される

 というものであり、結果としての三島の死はその可能性との二者択一の中で選び取られたもの、という残酷な解釈が成り立たないものではない。

 この最悪の死の可能性は作品の中で一切示されていないように思う。しかしこの頃既に三島は森田から「先生、いつ死にますか」と嚇かされていた筈である。どうも何かが隠されている。

 本多の理屈が屁理屈に見える原因の一つが、その隠されているものがあるらしい感じにある。

・しびれを切らした森田に殺される

 このパターンだけは絶対に避けたかったはずだ。その恐怖は、安永透の火掻き棒より怖い。

 ん?

 安永透は森田必勝?


[余談]

 タイの立憲革命、無血革命後の「幻滅」に関しては良く解らない。絶対君主制から立憲君主制という革命が昭和七年に起きたというのも、日本とあべこべのようでそうでもないようで、面白いと言えば面白いが、何かねじれているなと思うところ。タイ人は『暁の寺』を読んでどう思うんだろうか?


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