誤り、抜け、漏れ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む67
手短に言えば、夏目漱石の『こころ』が読めないものに三島由紀夫作品が読めるわけがない。平野啓一郎は確かスローリーディングとか言いながら夏目漱石の『こころ』を読んでいた筈だが、「私」と何某が何を呑んだのか、先生がKの頭をどの高さまで持ち上げたのか、あるいはまた鎌倉での海水浴で「私」と先生がどんな格好だったかといった細かい点を理解してはいないだろう。石原慎太郎が「物凄い」と言った三島由紀夫の凄みはそうした細部に宿る。
美しい幻
昨日八紘一宇について少し書いた。そのとき岡倉天心を引き合いに出したのは「おや?」と思ってもらうためだ。岡倉天心と言えば『茶の本』、東京芸大学長というのがマス・イメージではないか。
今「八紘一宇」などと言い出せば右翼のバカということになりかねないが、岡倉天心はゴリゴリの右翼ではなくまあ、いってみればただの真面目な美術史研究家である。その岡倉天心が真面目に八紘一宇と書いているのでどうも驚いた。書いていることは三島由紀夫より過激である。
しかしそのくらいアジアは危機的状況にあり、日本が追い詰められていたことは事実であろう。
ここに出てくる「秕政ヲ釐革シ」は「死諫を当路に納れ、秕政を釐革せしむ事」「闇中に劔を揮い、当路の姦臣を仆す事」として神風連の模倣の形式に結果的にはなってしまう。明治天皇が神風連を本当に真似たわけではないがたまたまにせよ言葉が重なってしまったのだ。
これが何の話かというと美しい幻の話だ。
三島の死を思ってみれば、ここは思わず頁を捲る手が止まるところである。昨日この個所で余談にずれたのはそのためだ。
平野啓一郎が「41 「一〇・二一国際反戦デー」以後の急進化」で確認している『暁の寺』の執筆時期に鑑みれば、ここでその意味が残酷に確認されている勲の死は、やはり三島自身の死生観により引き寄せられ、問い詰められているものに見える。
そして本多がわざわざ「無血革命」と呼んだものを確認してみれば、その政治詩に「死を賭けて望む未来の幻」を見てしまうちぐはぐさに戸惑わざるを得ない。手短に言ってしまえば、この詩人は死んではいないだろうし「未来に捧げし青春の贄」は彼の命ではなく、精々「時間」程度のものに過ぎない。
三島由紀夫の最期の詩がそんな欺瞞で終わってしまったことにも驚くが、この欺瞞を指摘しないで三島由紀夫論が書けてしまう評論家の存在、その評論を決定版と呼んでしまう編集者の存在、殆ど日本語を理解さえできないのに編集者として居座ろうとする厚顔、伊東純也の選手生命を脅かし平然としている出版社の悪徳ぶり、そして牛乳の値上がりに驚く。
しかし引用部の前半は、政治詩と切り離してしまえば、「屁」ではない理屈を提示している。
おそらく岡倉天心の言う八紘一宇は最も美しい幻であった筈だ。
この英語版の原作が出版されたのは明治三十九年。武士道と茶道が対比され、茶道はArt of Lifeであると強調されている。
明治三十六年には、こんなことを書いていたのに。
そしておそらくこれは変節ではないのだ。岡倉天心の美しい幻は本多の言う美しい幻とは違う。岡倉天心は死を賭けて望んでもいない。しかしどっちみちそれは「同じもの」なのかもしれないのだ。このロジックに於いて死を賭する行動そのものが徒爾となる。
ただ死ぬものは死に、死なないものは死なない。
仏教的には生死が戯論というわけである。
プレゼンなら怒られる
私個人は三島由紀夫をほとんど読んでこなかった人に比べれば、それでもまあ、多少は、三島由紀夫の文章には慣れている方ではないかと思うのだが、そんな私であるからこそこんなくだりには引っかかる。
あんた最初からそんなやん。「すがすがしい直線の思念」なんて一度たりとも見せたことあらへんやん。それが三島節やん。「すがすがしい直線の思念」なんてできへんやん。飯沼勲でもできとらんかつた。そんなもんできたのは「坊っちゃん」だけやで。
プレゼンで「幾重にも重なった花弁のやうな構造を与へ」なんて言うたら怒られるで。スマートアートで描いてみい言われるで。
そして実際に言われる理屈は見事な屁理屈なのだ。
小林 すみません。ゼロフリクションBP代表クリスタル役の小林と申します。二三質問よろしいでしょうか?
本多 手短にどうぞ。
小林 今の「先見」の中にインドの影、花弁のような複雑な構造はどのように表れているんでしょうか。おっしゃられたのは寧ろ飯沼勲の純粋と言うか単純な先見であって複雑な構造は見えないですよね?
本多 それは君が馬鹿だから見えないだけだ。
小林 それからええっと「ガラスの障壁」っていうくらいだから、そもそも透けて見えるわけですよね? それに死んだら透かし見るも何も、見えなくなるんじゃないですかね?
本多 お前は覗き魔か。
小林 それは先生の方ですよね。それでその「過去と未来が平等になる」という理屈は、単に死んだら、ということであって、行動して死のうが病気で死のうが同じこと、じゃないんですか?
本多の持説
この先見の話はまだまだ続いている。屁理屈ではあるが、恐らくは三島由紀夫自身の死に対する考え方が漏れてもいる個所ではあろうから、誰かさんのように読み飛ばすことはできない。
まずこの「光輝」に関しては既にこう言われていた。
従ってここで言われていることは「向こう側からはこちら側を、こちら側からは向こう側を、等分に透かし見る」という行為を「実在の勲と仮構の勲と」に置き換えてより具体的に繰り返したに過ぎないように見えるけれども、光輝が日輪であるからには、仮構の勲と実在の勲は眼がつぶれている。
そして何も確実でないものを確実だと言ってみる。
本多は法廷で勲の日輪に対する思いを聴いていただけに過ぎない。勲が小説的には最後に日輪を幻視したらしいことは読者には解るが、本多には解らない筈なのである。むしろ普通の大人なら、せめて朝日を待って死ねたら仕合わせだっただろうにと悔やんでもおかしくはないのだ。ここは一つ理由を欠いている。
ここも敢えて理屈を言えば諄いように太陽信仰を語り、それ以上の神などありえないのだと念押ししていると見てよいだろう。
ここで「実在の勲と仮構の勲」が「二つの生が、二度とやり直しのきかぬ二つの生起を通じて、あの硝子の障壁をつらぬいて結ばれる」と書かれることで松枝清顕と飯沼勲のことであるように思えたにもかかわらず、突然ステップを踏み換えるようにして「勲とこの政治詩人」に置き換えられていることに驚く。
というよりさすがにこれは「向こう側からはこちら側を、こちら側からは向こう側を、等分に透かし見る」という構図にはならないだろうとミスの指摘をしたくなる。「こちらの先見がまだ見えぬ筈の向こう側の光輝をありありとつかみ、又向う側の目が、こちらを透かし見て無限に渇望し、獲得された何ものかがまだ獲得されぬ何ものかに憧れ、自らへ向けられた過去からの渇望の光輝を、ありありとつかんだ」と交換される日輪を前提にするとさらに無理が出てくる。
細かいことを言えば「時のそこかしこに立てられた硝子の障壁、人の力では決してのりこえられぬその障壁」と言っていたものを「あの硝子の障壁」と既知のものの如くに言い直した時点でもう酔っ払い並みの屁理屈である。そしてさらに三島は本多に、「勲とこの政治詩人とは、通りすぎた果てに死にあこがれる詩人と、通り過ぎることを拒否して死んだ若者との、永遠の連環を暗示してゐたのである」と無理を言わせてみる。そもそも二人の関係はたまたま本多が見出した恣意的なものであり、勲と反対の死なない革命家の一人という以上に政治詩人を特徴づけるものはない。
いや死なない上に母国語ではない言葉で「未来に捧げし青春の贄」と書いてみる、それを恥ずかしげもなく自費出版してみる厚顔さは、勲の対極にある筈なのだが、本多はこの政治詩人をけして咎める様子もなく、むしろ偉く持ち上げている。
本多の「それなら彼らがおのおのの方法で、意志し望んだことはどうなつたであらう」という自問は打ち捨てられる。
そのことは既に、
25ページにこじんまりとまとめられていた筈だが確認さえされない。「次々と類似の事件が起」きたのは「昭和神風連事件」の影響もあってのことなのか、むしろこの創られた歴史においても「昭和神風連事件」は五・一五事件とニ・ニ六事件にはさまれた類似の事件の一つに過ぎないのかと判別にもかけられない。
そして「歴史は決して人間意志によつては動かされぬが、しかも人間意志の本質は、歴史に敢えて関はらうとする意志だ、といふ考へこそ、少年時代以来一貫して渝らぬ本多の持説であつた」と繋げられてしまうと、兎にも角にも勲は歴史に関わろうと意志したのだ、とやる気だけを褒める形になっている。目標管理制度においてはあり得ない評価だ。目標未達は否めないのに無理やり加点しようとしている。
さらに「少年時代以来一貫して渝らぬ本多の持説であつた」と言われると「印度は彼の考へに、幾重にも重なった花弁のやうな構造を与へ」がどこに行ってしまったのかと質問したくなる。
かくも政治詩に関わる本多の言説は奇妙にねじれ、非論理的であるばかりか、過剰に詩的であり、混乱してもいる。ここに引っかからない人がもし存在していたとしたら、その人は単に『暁の寺』を読んでいないだけだ。
平野啓一郎はこの辺りを簡潔にまとめている。
どうも「創作ノート」を手掛かりに、書かれていない設定を読み込んでいるので「軍人」などと書いてしまう。ここは「そのまま」が誤り。「硝子の障壁」の屁理屈に言及していないのは抜け、「過去と未来とが等価になり、要するに平等になる」という死生観に触れないのは漏れと言って良いだろう。
行動によって死んだ勲と、死なない革命詩人が「同じものでさへあるかもしれない」とゆるくも捉えられている辺り、森田必勝が読めばガリッと音がするほど歯ぎしりしたに違いないと思うのだがどうだろう。
死なないで詩を書いて何が偉いんですか、と詰め寄るほど森田に国語力があったかどうかは解らないが。
[余談]
このように三島のロジックはいつも隙だらけだ。
こんな青年はそもそもいない。
自刃できるということは刀を持っている。
米兵は銃で日本人を殺そうとしていたのであろう。
刀ではそれを——「ルパン三世」の石川五右衛門でない限り防げない。
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