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食と「こころの健康」

 心身の健康を謳う現行の食育が、実質的に身体的健康のみを目指すものと断ずるならば、食を通じて心の健康を得る具体的な方法を新たに模索することは、これからの食育のあり方を考える上でひとつの大きな足がかりとなり得る。

 まず何を以て心を健康と見なすか。それには諸説あると思われるが、一例として日本の厚生労働省の提言には、「自分の感情に気づいて表現できること(情緒的健康)、状況に応じて適切に考え、現実的な問題解決ができること(知的健康)、他人や社会と建設的でよい関係を築けること(社会的健康)」(休養・こころの健康/厚労省)とある。

 また、参考までにWHOの憲章(1947年)では、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」(健康の定義/公益社団法人・日本WHO協会)と定義されている。

 前者は、いずれも各人の言動面の過程を遡って評価するべき指標となっているのが「心」というものの直接的な捉えにくさをよく表しており、後者は、精神を心と読み替えれば、漠然と「満たされた状態」をどうやって判定するのかという点に些かの疑問が残る。

 そもそも形のない心を相手に、表層に現れたもっともらしい客観的事象をかき集めて「健康だ」「不健康だ」などと画一的に評価する従来の方法論では人間の個人差等の不確定因子をいつまでも吸収しきれるとは考えにくい。より本質的な心の状態を見出すためには、極力個人差を排した人間の根源的な部分への思索を以て当たるほかない。その意味で、筆者はすべての言動を誘発し得る動機の源泉としての心が如何に各人の感情や行動面に作用するのかという機序の面にこそ着目すべきだと考える。

 心理学において、ユングやフロイトに並ぶ三大巨匠のひとり、アルフレッド・アドラーは認知論において人の心を色眼鏡に例え、すべての人間は主観的な意味付けを通して物事を把握し、またそのことに無自覚であると説いた。19世紀を代表する哲学者フリードリヒ・ニーチェは「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけである。」という言葉を通じて、主観と客観を区別する有意性を否定したとされる。それらを踏まえ、もし人の心があらゆる事象を内面に映し出す主観のレンズとして機能するならば、その健康および健全性とは、事象という被写体を如何に実像に近い形で捉えられるのかという点に一つの指標を見出し得る。つまり、人間の主観に対し、透過率や焦点距離、画角、解像度(≒分解能)といった光学的な性質および性能を見出すことで心の健康状態を評価できるという比喩的な視点である。言うなれば、主観と客観の境界を見定める代わりに主観そのものの精度を問うといったところだろうか。

 先の厚労省が掲げる3つの「こころの健康」を例にとると、自分の感情が今どうなっているのか、目の前の状況をどう把握し対処するのか、他人や社会との関係をどう評価するのか。これらを考える上で、主観のレンズ性能の不足や偏りによって実態の認識に不十分な像が結ばれてしまえば、その応答に必要な情報処理に高い整合性や安定性は望むべくもない。

 対して、主観が物事の実像をより広範囲かつ鮮明に捉える高効率なレンズとして機能すれば、自ずと当人の感情・行動両面における応答の有意性や必然性が増し、結果として、主客両面において整合性の高い言動に帰結、表出され易くなる下地が整う。それは即ち、厚労省の3つの指標においてもより合理的な言動の過程が導き出される可能性が高い状態、つまりは心の健全性が示唆される。

 しかし、いくら心をレンズに見立てて光学性能を高く見積もったとしても、個人差という不確定性のつきまとう人間という生き物において、時にはそれが濁っていたり、ヒビや割れ、また欠けているといった特異な状況も想定される。比喩とは言え、安易にレンズ性能の高低を心の健康を測る指標とは呼べないのではないかという疑問も残る。

 ここに来て前述のWHO憲章の健康の定義を借りるなら、精神(心)の不健康は病気や弱っていることを直ちに意味しない。即ち、上記のようなレンズの異常を何らかの病理的な心の有り様として捉えれば、心の健康・不健康の判断指標とはある程度切り分けることが出来そうである。

 ちなみに心の画角や解像度といった表現は筆者の思想を伝える便宜上の暗喩であるが、なにもカメラ用の単焦点レンズのような固定的な性能のイメージを人間の心に重ねたいわけではない。むしろ成長することの出来る人間であるからこそ、レンズが意味するところの心の各種性能は向上可能であるとさえ筆者は考える。前置きが極めて回りくどくなったが、そこに大きく寄与してくるのが他でもない「食」なのである。

 別記事で述べたように、食は人間が五感すべてを同時に働かせる高度かつ唯一の活動である。五感は人間が外界と関わる上で最も基本的な感覚であり、最終的には脳内で電気信号として処理される一連の生理的な反応の他にも、心理的な影響をもたらしたり、過去の記憶や経験を呼び起こしたり、知的な応答などを導き出すものと考えられている。

 例えば、お香の匂いを嗅ぐといつも実家の仏壇が思い出されて急に田舎が懐かしくなるといった気分や、旅先の景色に感動して名句を詠んだかつての俳人たちの当時の心持ちもそうやって五感が引き出した反応の一つと言えるだろう。

 食も元来は五感を研ぎ澄ましながら働かせる行為であり、同様に人間の様々な反応を引き出し得ると考えられるが、通常の食事においては生命維持のための栄養摂取の観点から能率が重視され、おそらくその多くは無意識のうちに破棄されている(認知心理学では、五感による感覚記憶[Sensory memory]の保持期間は1~2秒以内とされる:George Sperling.1960)。食事の度に必要以上の反応を強いられては活動負荷が高く、もともと脳が忘れることを生理機能として備えているように、それ自体はごく自然なことと言えよう。

 しかしながら、実は、その無下に捨て去られているであろう種々の反応にこそ心の健康に繋がる食の大きな可能性が秘められているのだ。鍵となるのは、五感が人間の様々な反応を引き出す際に繋ぎ手となる「認知のメカニズム」である。次回へ続く⇒

出典元:大人のための「感性の食育学」- コラムニスト・フジワラコウ

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