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食は「五感すべてを同時に働かせる」唯一の高等技術

 すべての生き物にとって食は生命存続のために不可欠な営みであると同時に日常生活における最大の冒険である。なぜなら物を口に入れるという行為は毒物などの様々な危険物や食物以外の異物を体内に取り込んでしまう多大なリスクを伴うからだ。

 そのため人間は対象物の見た目や匂い、触感(食感)、酸味で腐敗を、苦味で毒性を判断できるよう高度な知覚機能が発達し、免疫をはじめとする人体の生体防御システムは予期せず体内に侵入したウィルスや細菌等の有害物質を速やかに体外に排除する役割を担っている。

 事の本質は自身の命に関わることである。例えば人間の「リンゴを一口かじる」という行為ひとつをとっても、1.外観・色艶から傷み・汚損の有無を確かめる[視覚]、2.匂いから鮮度を窺い知る[嗅覚]、3.手に持った感触から重量および熟成度を推定する[触覚]、4.食感・咀嚼音から密度や含水率を推し測る[触覚+聴覚]、5.果皮の苦味から残留農薬等の毒性を識別し、果実の酸味の度合いから劣化(または腐敗)の有無を判断する[味覚]といった具合に五感すべての知覚過程を経てその状態や安全性が無意識のうちに何重にも確認されているのだ。

 とは言っても、食の安全性が叫ばれて久しい昨今、日本国内で一般流通している食物で意識的に五感を研ぎ澄ませる必要に迫られるほど安全性の不確かな場面は稀である。だがその一定の安全を担保している現代社会の高い衛生意識の反動として、少々の劣化は見られるものの加熱等の工夫でまだ十分に食べられる生鮮食品や商品ラベルに印字された賞味期限を僅かに過ぎただけの加工食品等が実態以上のマイナスイメージを持たれる傾向にあり、それらが日々平然と廃棄される深刻なフードロス問題にも繋がっている。

 特に先進国に見られるそういった食への態度は「飽食」とも揶揄され、元来人間が自らの五感を以て食物と真剣に向き合ってきた能動的な姿勢をいつしか受動的かつ怠惰なものへと変えつつある。例えるなら食の平和ボケとでも言おうか。その緩やかな変化の行き着く果ては、食という人間が五感すべてを同時に働かせるべき高度な営みが家畜動物の様な栄養摂取のルーティーンへと追いやられ、やがては人間的な知覚能力さえ鈍化していく儚い未来である。

 人類の歴史上、芸術や文学など様々な場面で食がモチーフになってきたことからも分かるように、人間は食の安全のその先にある純粋な喜びや味わいの奥深さに少なからず心を動かされてきた生き物である。自然の恵みを享受している感謝の念や畏れの意識を持ち得た者は食への敬意をしたため、食を通じた五感の知覚過程に心を開いた者は湧き起こる情緒に感性を揺さぶられ、新たな自己表現へと昇華してきたのである。

 当然、誰しもが表現者である必要のない中、食とどう向き合うかは本人の自由だ。エサ同様に単なる栄養源と見なすのも、五感を発揮して芸術作品と同等の価値を見出すのも一つの選択である。願わくはそれが人間として生を受けたことに意義を感じられる悔いのない選択であってほしいものだ。

参照元:大人のための「感性の食育学」 - コラムニスト・フジワラコウ


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