ヨルダン国王の現実主義|気になる中東
前回記事では、28年前にヨルダンに旅行した際のことを紹介した。
1992年当時は、まだ現国王の父、フセイン国王の時代だった。フセイン国王はこの頃すでにガンを患っており、アメリカの病院で治療を受けていた。私がちょうど紅海に面した港町アカバに着いたとき、国王が治療先から帰国されたというニュースが流れ、アカバの街は夜中まで国王帰国を祝って走りまわる車のクラクションなどでうるさかったことを憶えている。
フセイン国王は1952年に16歳で国王に即位した。そこから亡くなる1999年まで47年間に3度の中東戦争やイラン・イラク戦争、湾岸戦争など、激動の時代を生き抜いてこられた国王だ。
今もヨルダン国内にはイスラエル建国により逃れてきたパレスチナ難民とその子孫が200万人以上いると言われているが、パレスチナ解放機構(PLO)本部がアンマンに置かれていた1970年当時、PLOとヨルダン政府軍との間で内戦が発生、国王の暗殺未遂事件も起こった。そんな困難な状況の中で国を統治し、生き抜いてきた秘訣は、時に日和見主義と言われるほど、現実主義的な政治・外交姿勢ではないかと思う。この当時の中東には、イラクのサダム・フセイン、リビアのカダフィ大佐、シリアのアサド(父)らといった独裁指導者が多くいた中で、フセイン国王は穏健派として米国やイスラエルとも積極的に対話を重ね、中東和平の糸口を探し続けた。歴史的なパレスチナ暫定自治協定(93年)を成し遂げたイスラエルのラビン首相が95年に暗殺された際の葬儀でも、「わが友よ」と呼びかけ、その死を悼んだ。
預言者ムハンマド(マホメット)直系のハーシム家という出自の正統性への信頼もあったかもしれないが、やはりその人柄や政治姿勢が国民から慕われていたのだと思う。
そのフセイン国王の崩御後、即位したのが現国王アブドゥッラー2世。当時37歳。
英国の陸軍士官学校を卒業、米国ジョージタウン大学修士課程修了という経歴。ラーニア王妃は、クウェート出身でカイロ・アメリカン大学を卒業後、アンマンのCiti Bank, N.A.に勤務されていた元キャリア・ウーマン。王妃のインスタグラムはフォロワー数6百万人で、国王もたびたび登場する。
国王は国民の生の声を聞くために、たびたび変装して市中に出ることもあるそうだ。また自ら車を運転して海外の要人を空港まで迎えに行く他、自ら王室専用機を操縦して外遊することもあるという行動派。この辺りは父君の血を受け継いでいるように思われる。
国王、王妃とも、基本的に国民からは敬愛されているようだ。しかしながら中東情勢は父フセイン国王の時代に比べて、格段に複雑さを増している。
父譲りの行動派であり、また中東の中でも数少ない穏健派指導者であるアブドゥッラー国王の巧みなかじ取りにより、ヨルダン国内および中東情勢の安定化が実ることを願わずにはいられない。
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