「サダト・最後の回想録」を読んで|気になる中東
前々回のサダト政権に関する記事の中で、「サダト・最後の回想録」という本の内容について少し紹介した。1982年の本で、私もだいぶ前に読んだきり、本棚の中で眠っていたが、久しぶりに開いてみると面白かったので、もう少し紹介することとしたい。
回想録は、サダトが大統領として出会った人物評を中心に書かれている。
サダトが高い評価を与えている人物は、盟友ナセルの他、チトー(旧ユーゴスラビア大統領)、ファイサル(サウジアラビア国王)、シャー・パーレビ(イラン国王)、ジミー・カーター(米大統領)、マーガレット・サッチャー(英首相)など。逆に毛嫌いしているのは、フルシチョフ(ソ連第一書記)を始めとするソ連共産党の関係者。またリビアのカダフィ大佐やシリアのアサド大統領については「嘘つき」呼ばわりしている。イランのホメイニ師については強烈に批判しているが、直接会ったエピソードは書かれていない。
ここで紹介したいのは、イラン革命をはさんだ新旧の指導者、シャー・パーレビ国王とホメイニ師についてだ。
シャーとの親交については、1969年にモロッコのラバトで行われたイスラム諸国会議の場で、当時エジプト副大統領として同会議に出席したサダトが、シャーの演説に反論したことで一旦は対立が深まりそうになったが、古いペルシャ語の詩の一節を朗読したのに対してシャーが立ち上がって拍手を送り、一気に打ち解けたエピソードなどが詳しく紹介されている。また第四次中東戦争の後、エジプトの石油の備蓄が枯渇して危機に陥った際に、アラブ諸国がエジプトの窮状に手を差し伸べなかったのに対し、シャーが真っ先にタンカーを差し向けてくれたことに、強い感謝の気持ちを述べている。
シャーは1978年1月、エジプトのアスワンを訪れてハイ・ダムを視察した際に、サダトが取り組むイスラエルとの和平イニシアチブに全面的な賛意を表明したという。しかしちょうどその1年後、1979年1月に再びアスワンを訪れたシャーの立場は一変しており、イラン革命の激化によりエジプトへの亡命を求めてきていた。わずか1年で国王の立場をこれほど変えてしまう中東政治の不安定さを象徴するエピソードだ。
私はイラン革命について、以前にイランのシリーズの中で私見を述べている。
サダトは、イラン革命は共産主義者による画策であり、ホメイニ師もこれに操られただけ。そしてこれはイスラム革命ではないと主張している。
サダトは、ホメイニ師も極左勢力に利用されていることに気付いたとき、シャーと同じ運命をたどるのではないかと書いている。現実はそのようには行かず、ホメイニ師はイラン・イラク戦争後の1989年に死去するまで、最高指導者であり続けた。そしてその後もイスラム共和国体制は維持され、中東情勢における大きな不安定要因の一つになっている。
サダトは敬虔なイスラム教徒だが、回顧録の中でも「コーランの教えを実行する際には、政治的な論議を介在させてはならない」と述べ、イスラム法およびイスラム教指導者が国家を統治することを明確に批判している。近代西欧的な民主主義、立憲主義の意志を明確に持った指導者だったと言えるだろう。
振り返れば、サダトが亡くなった81年前後は、エジプト~イスラエル和平協定や、このイラン革命など、中東情勢にとっても大きな転換点となった時期だったが、残念ながらそれから40年も経つというのに、中東情勢はまが混迷の中にある。
サダトは回顧録の中で、中東和平協議において、米大統領ジミー・カーターにこう語ったと述べている。「決して希望をなくしてはなりません。我々が直面しているどんな問題にも、やがて解答が必ず見つかるでしょう。我々二人の間で直接の接触を続けることこそ重要です。接触の場さえあれば、どんな行動についてもお互いに見解を交換できるでしょう。」
自国ファースト主義やデカップリングが蔓延し、分断化が進む今の国際情勢にあって、世界の指導者たちにこのサダトの言葉をもう一度噛みしめてもらいたいと思う。
【エジプト編終わり】
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記事は以上です。お読みいただきありがとうございました。
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