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2023年映画感想No.64:CLOSE/クロース(原題『Close』) ※ネタバレあり

近くて閉じた二人の関係

ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞。
ファーストシーンから主人公レオとその親友レミの近くて閉じた、文字通りクロースな関係性が撮影的な演出からもしっかりと感じられる描き方になっている。
真っ暗な中で交わされるお互いだけが聞こえる囁き声の会話や、互いの目から見えるクローズアップの姿など、「近さ」を意識させる会話の映し方が二人の距離感を表している。場所的には閉所でもあり、二人だけの閉じた世界という意味でも「クロース」というタイトルが二重三重にかかった場面設計として感じられる。
二人は「見えない敵に囲まれている」というごっこ遊びに興じているのだけど、外の世界に広がる社会からの抑圧によって二人だけの楽園から追い出されてしまうという後の展開が予感される会話でもあるように思う。二人同時ではなくレオが先にパッと外に飛び出したところで場面が切り替わってしまうことすら暗示的に見える。
一方でこの時点では外に広がるのも二人だけの緊密な世界があり、それが花畑の中を二人が並んで走るカットだけで鮮やかに浮かび上がる。並んで走り、楽器の演奏を楽しみ、共に食事を食べ、添い寝し、二人で学校に向かう、という二人だけの時間を示す一連の場面があるのだけど、その全ての描写が二人の関係を象徴するものであり、それがどのように変わっていくのかによって関係性の変化を浮かび上がらせていく丁寧な語り口が心に残る作品だった。

学校という社会~有害な男性性の同調圧力

二人が初めて学校に行く場面ではこの映画で初めて用いられるロングショットの撮影によって二人だけの閉じた関係が学校という大きな社会に飲み込まれていくような予感が撮影だけでしっかり演出されている。二人の存在が相対的に小さくなっていくような緩やかなズームアウトも上手い。
ホモソーシャルな同調圧力によってレオはレミとの友情を突き放すようになっていく。スキンシップを拒み、添い寝をやめ、一緒に通学しなくなるなど、彼らが物理的に少しずつ遠ざかっていくことがそのまま心の距離としても感じられる。親友のオーボエの演奏が好きだった少年が体育会系に転向していくなど、属性的な変化も説明無しでスマートに描いている。
レオとレミの関係を差別的に攻撃するのは一部の男子だけであり、同級生の中にはそういう有害な男性性に嫌悪感を示す男の子もいるのだけど、当たり前を否定されることの不安や恐怖を受け入れられないレオは迎合することを選んでしまう。自分の属する社会で生きていくために友情やパーソナリティを否定してしまうレオの切実な自己防衛がレミを傷つけてしまうし、レオ自身も折り合いをつけようとする態度の後ろ側で自らの良心を痛めているように見えるのが心苦しい。ネガティブな言葉が他者に与える影響の強さも感じられる描写なのだけど、"言葉"それ自体が二人の言葉では表せない信愛関係を枠に押し込めていくような暴力性も感じた。
変わっていくレオを見つめるレミの視線など自分が大切だと思っていた友人に否定されることに心を痛めている様子が端々に滲んで見えるのが胸を締め付ける。レミがその理不尽への怒りや悲しみをレオにぶつける場面は身体的なぶつかり合いになっていて、以前のように近づきたいという想いの切実さが絵的にも際立つ演出になっている。

色を用いた象徴的な演出

初登校の前夜に不安そうなレミに対してレオが話す「アヒルとヘビの物語」の中で体の色への言及があるように「色」は本作の重要なモチーフになっていて、映画冒頭からレオは白、レミは赤がそれぞれの象徴的に用いられている。
レオの実家の花卉農家なのだけど、まだ何も起きていない時点からレオが白い花を摘む場面があり彼が自分自身を否定していく展開が予感されている。また、映画冒頭では白い服を着ていたレオがホモソーシャルに溶け込むにつれてウインドブレーカーやアイスホッケーのユニフォームなど黒い服を着るようになっていくことが本来の自分とは真逆の性格を演じているように映る。
他にもレミを突き放すことの残酷さがトラクターで赤い花を刈り取る農家の作業と重ねて不穏に描き出される場面がある。こぼれ落ちた花をレオが拾い集める様子から、傷ついて崩れていくレミの心をレオも頭のどこかでは理解しているかのように感じられる。
また、レミの自殺を聞いて彼の家を訪ねたレオの顔にレミの家のドアの赤が反射するカットがあり、悲劇的な出来事が起きたことを示していると同時に、レミを傷つけていたことを含めてレオが目を背けていたレミへの感情が痛みとともに溢れ出てしまったかのようにも見えるのが切ない。

「男らしさ」という鎧、「男らしさ」という呪い

レオが自責の念から目を背けるようにマッチョに振る舞って見せるのがとても痛々しい。認めてしまうと背負いきれないからこそなんとか自分の生活に戻って気を紛らわそうとしているのだけど、その生活自体がレミを傷つけた振る舞いそのものであり全てが彼を責めるように機能してしまう。タフに振る舞って耐えようとしてもそもそもその逃避自体が間違っているということを内心理解していることの苦しみが、どれだけやっても上手くいかないアイスホッケーの練習描写から切なく浮かび上がる。レオが纏う「男らしさ」という鎧は同時に呪いでもあり、レミに「泣くな」といった手前、レオは素直に悲しむことすらできない。
レミを苦しめていたことへの後悔がレオの苦しみであると同時に、レミの苦しみを理解しているのがレオだけであるということもやり場のない彼の自責をより強めている。学校ではレミの死について考える授業が開かれ「レオの親友だった」という事がレミのポジティブな思い出として語られる。自宅でもレオに一因があるとは全く思っていないレミの両親が食事に招かれ、目の前で深く傷ついた様子を見せる。亡くなったレミの思い出も、残されたレオに対する思いやりも、その全てがレオの心にグサグサ刺さっていくのが本当に居た堪れない。幼さゆえの同調圧力で始まった出来事が背負いきれないほどの罪の実感としてレオにのしかかっていく。

残された人との関係に見るレオの本心

そうやってレオが自分を偽ることの限界に近づくにつれて、「今できる正しいことをしよう」というレオに残された良心が彼自身を押さえつけている理性を飛び越えてレミの母親の方へと向かっていく。タイトルの通り「クロース=近づく」ことが亡くなった親友と改めて向き合うことに繋がっていく。レミの母親の知りたい事があるのに上手く言葉にできない繊細さがレミそっくりで、だからこそレオは今度こそそれに応えなければと感じているようでもある。
また、レオは膨らんでいく後悔や悲しさを少しずつ兄に打ち明けるようになっていくのだけど、添い寝をして本音を話し、一緒に学校へ行く兄の存在にレミとの関係を重ねているようにも映る。ここにレミがいて欲しいという気持ちが表れているようで切ないし、同時にそれを手放したのも自分だからこそ兄の優しさでは痛みは消せない。

言葉では表せない二人の関係性

レオがレミの母親に打ち明ける場面も多くを語らない演出がレオとレミの関係性の繊細さを物語っているようでもある。やはりこの映画の中では言葉で表せないものとして二人の関係が描かれているように感じられて、そこに作り手の誠実な眼差しを感じた。
ラストは赤い花畑の中で振り向くレオのカットで映画が終わる。映画冒頭、レミが最も近くにいたあの時間、あの場所を文字通り振り返っている。心に去来する複雑な思い出がレオを取り囲む赤い花畑の景色によって切なく浮かび上がる。

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