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2023年映画感想No.44:怪物 ※ネタバレあり

構成からくる推進力~なにが"怪物"なのか

109シネマズ川崎にて鑑賞。是枝裕和監督最新作。音楽は坂本龍一、脚本は坂元裕二。
同じ時系列を違う人物の視点から描きなおす三幕構成によって物語に推進力が生まれている。それぞれの視点から対峙する他者と死角となる真実のどちらにも「怪物」というタイトルを意識しながら観るような内容で、「何が"怪物"なのか」という印象が観ていてどんどん変化していくのがサスペンスとして面白かった。
そうやって「怪物」という他者性を当てはめて物事を解釈しようとする部分には特定の職業や立場の人物に対して自分の理解しやすい属性に引き寄せて捉えようとしてしまう観客側の偏見を指摘されているような感覚がある。語り口が意図的に内包するミスディレクションはそのまんまそれぞれから見える物事のバイアスを追体験させられるようでもあった。

分断された別々の問題を見つめる三幕構成

一幕目、二幕目、三幕目と同じ時系列の反復ではありながら同じ出来事を違う角度から見つめるような描写はあまりないことから、それぞれのパートで描かれている出来事にどこまでのバイアスがかかっているのか曖昧になっている部分が多い。
一幕目に対して二幕目が、二幕目に対して三幕目がそれぞれのパートで立ち上がる「怪物」的なる存在へのアンサーとなるような人間の描写を捉える。それぞれのパートにおける「重要な存在」も視点が変わると一気に役割が無くなってしまうなどそれぞれ全く違う問題を見つめているという事があえて同じ出来事を見つめさせないような三幕構成からも立ち上がってくる印象があった。
一幕目、二幕目と人物から見えている出来事にバイアスがかかっている可能性を考えるならば描かれていることやそこに登場する人の印象をそのまんま信用することはできないし、本当なのか、バイアスなのかが曖昧にされたままの描写が多いことから一つの出来事の答え合わせを目的とする作りではないように思う。
一つの出来事に後ろ側には分断された別々の問題があり、それぞれの切実さをフラットに見つめる。誰かの抱える問題を別の大きな問題の”原因”として捉えたり、大きな結末という一つの”結果”に収束させることはせず、3つの「原因と結果」を善悪や優劣ではなく合成の誤謬として捉える物語のように感じた。
本作は「現実とは不完全なものだ」という認識から始まっている物語という印象がある。三幕構成が浮かび上がらせるのは「大きな全体」ではなく、分断された不完全な世界のように感じられる。だからこそ物語内で完結することはなく、個人と個人の繋がりが部分的に分断を解消することが希望の限界として捉えられている。
個人ができることとしてのコミュニケーションの可能性、価値観の更新を希望として映し出しながら、決して完結し得ない現実の在り方自体は宿題として観客に投げかけられているように感じる。

組織の事なかれ主義によって見えなくなる問題の本質

映画を最後まで観ると一幕目と二幕目では安藤サクラ演じる母親と永山瑛太演じる保利先生の視点から本来それぞれが対処するべきだった問題が学校組織の事なかれ主義によってどんどん別の問題へとミスリードされていたことがわかる。
何が、なぜ起きたのかについてきちんと考えない組織の在り方によって本質がエアポケット化し、大人たちの横滑りを繰り返すコミュニケーションの断絶や相互不理解が皺寄せとして二人の少年を抑圧していたことがわかる。三幕目で明らかになる真実についてそれまでの物語で絶妙に予想させない見せ方になっていることが映画の内容的にも非常に効果的だと感じた。

一人息子と向き合うシングルマザー

夫を早くに亡くしたシングルマザーだからこそ戸惑いながらも自分が正しいと思う方法で一人息子に接することしかできないという苦悩が見え隠れする安藤サクラの母親像は素晴らしかった。内心心配しつつも普通に振る舞って見せる優しさや、思春期の息子をできるだけ尊重しようとする我慢強さなど子育ての初めての段階に悩みながらも精一杯向き合う姿がとても人間的に映った。
病院の帰り道で心に引っかかっていたことを矢継ぎ早に質問してしまう場面ではなんとかしてあげたいという気持ちが溢れてしまったように見えて胸を締め付けられるし、親が子を心配してしまう気持ちや家庭外の事情に対する無力感が非常にリアルに描かれていたと思う。
だからこそ父親の代わりという家庭内の役割が息子を抑圧してしまうのが皮肉で苦しい。女親として父親をロールモデルに一人息子を育ててきたのだろうし、それに応えようとしてきた息子の湊が自分のセクシャリティを肯定できず自分自身に絶望してしまうのが見ていて辛い。

家庭で定義される価値観からの解放

一方の依里もまた家庭内で植え付けられる価値観から自身のセクシャリティを否定されている人物なのだけど、湊より自覚的に状況を見つめている。自分が置かれている状況をそういうものだと諦めることで受け流そうとしている様子が観ていてとても苦しいのだけど、だからこそ彼の受ける理不尽な扱いに良心で反応した湊のことを信じているような接し方がとても純粋で愛おしかった。湊が時折依里に拒絶的な態度を示すのも同調圧力からくるものであり自分を否定する他の人とは違うと依里はわかっているように見える。
依里の劣等感を支配している父親と依里の希望である湊が対峙する場面で、自分を否定して父親に迎合しかけていた彼がSOSのように父親への反発を湊に伝えるのがとても切実で胸が苦しくなる。
依里、湊のどちらも家庭という選択できない環境によって定義される価値観にアイデンティティを否定されてしまう人物であり、そうやって否定されてしまう自分自身を家庭外の理解者であるお互いとのコミュニケーションで乗り越えていく。家族の影響から解放されていく部分には是枝監督の作家性との連なりも感じる。大人世代がコミュニケーション不全によってどんどんと分断をこじらせていくのに対して当事者となる子供同士はコミュニケートすることで繋がりを築き、自尊心を回復していくのが対照的に映る。

印象に残る映画的演出

時系列を反復する構成のドッグイヤー的出来事として街で起こる火事が描かれるのだけど、それぞれが異なる真実を見つめていることを象徴的に映し出す要素のようにも感じられる。同じ場所から見ていた湊と母親ですら違う解釈で出来事を捉えており、それを分かち合うことは無い。
また交わらない視点を撮影的にも表現するように建物内の階層や高い場所からの景色など人物を高低で捉えるカメラが印象的に多用される。息子がいじめに遭っている可能性を相談に来た安藤サクラが校長室で面会する場面も機械的に頭を下げる教師たちや覗き込んで話しかける母親など場面内に目線の上下が描き込まれているのだけど、ついぞ目と目が合わないということが関係性を象徴している。保利先生が追い込まれていく場面では生徒の存在がどんどんカメラの外側になっていくのが彼から見える子供への不信や混乱を感じさせる演出になっている。
どこにも行けない孤独な少年たちが動かない廃線の電車内で関係を育んでいくのも良かった。怪物的なる他者と対峙している大人たちに対して、ありのままの個人として目の前の相手を見つめようとする湊と依里の関係が美しい。同調圧力に抗えないことに傷つきながら暴力を振るう湊と、それを理解しているから相手を責めない依里が社会という多数派の価値観に良心で抗い、理屈ではなく実感として誰しもの尊厳が守られることの正しさに近づいていくのが良かった。
カタストロフを経たラストにも乗っていた電車でどこかに行けたり、世界が変わったりするような奇跡は起きない。それでもお互いの存在という救いとなる世界の居場所を内面化できたかのような希望の予感が心に残る。

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