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2023年映画感想No.20:フェイブルマンズ(原題『The Fabelmans』)※ネタバレあり

映画にすることによる人生の肯定

TOHOシネマズ日比谷の一般試写会にて鑑賞。映画.comさんありがとうございます。
スティーブン・スピルバーグ監督最新作。監督自身が映画に目覚めその世界に飛び込むまでを描いた自伝的作品ながら、タイトルが複数形でもあるように家族についての映画でもある。決して安易なノスタルジーではなく映画を撮ることとが両親の複雑な関係を浮き彫りにしていくなど常に映画作りが夢でもあり業でもあるという描かれ方になっている。
「自分は映画を上手く撮れる」ということがサミーのアイデンティティを定義していく一方で「上手く撮ることが出来る」という能力は必ずしも彼の人生を好転させてはくれない。ただしそれも含めて映画というものの尋常ならざる影響力に目覚めていくような物語でもあり、良くも悪くも人生を変えてしまうという逆説すらも物語に取り込んで描き直すことで真の意味で「全ての起きることには意味がある」と自分人生を丸ごと肯定して見せるところに映画を作ることの素晴らしさや映画作家としてのスピルバーグの矜持を感じた。

物語全体を象徴するスマートなファーストシーン

主人公サミーの最初の映画的記憶として初めて映画館で映画を観る場面がファーストシーンになっているのだけど、映画館に入ることを躊躇うサミー少年に対してかける言葉の違いからすでに両親の間にはすれ違いの予感が描かれている。両親の関係性の他にも「映画は夢」「夢は悪いものだ」という本作の映画観を示唆する母親とのやりとりなどこの映画全体に響き続ける情報が詰まった鮮やかなファーストシーンだった。
列車の衝突シーンに魅せられてクリスマスプレゼントに頼んだミニチュアの電車ですぐに衝突事故を再現しようとするのがすでに主人公のただものじゃない映像感覚を示す見せ場になっていて楽しい。走るミニチュアの映し方が「サミーにはこう見えています」と表現されているようで、最初から正解の絵を見つけることができるサミーの天才的な感覚が映像的な表現によってしっかりと感じられる。

映画を作ることにより得られる自己承認

サミーがどうしたらよりリアルな映像を撮れるかを試行錯誤する過程も楽しい。その全てが後のスピルバーグを作るのだと思うと「色々なことにトライして純粋に創作に打ち込み続ければいつか映画監督になれる」とこの映画を通じてスピルバーグが劇中のサミーと同年代の子供達に継承しているようにも感じられる。
またサミーの映画作りが完成した映画を人に見せることで完結するように描かれるのも良かった。作ったものがどのように伝わるのかわからないことの不安や恐怖、そしてそれが正しく伝わった時の喜びや感動が瑞々しく感じられる場面になっていて、映画を撮らなければ誰にも認められなかった自分の存在が作品を通じてから誰かの人生に意味をもたらすことができるかもしれないという物を作ることで世界から承認されるような感覚が感動的だった。僕も自分の描いた絵を初めて褒められた時の自分が何者かになれたような気持ちを思い出して僭越ながらとても共感した。
一方で家族キャンプの映像で作ったフィルムの上映場面では自分が本当に作りたいものと違うものを見せることの葛藤や苦悩があり、だからこそ真実という映像作家にとって最も魅力的な素材に抗えないことが母親への糾弾という誰も幸せにならない映像を上映する展開に繋がっていく。それを作ってしまうこと自体が「俺は映画監督だ」という業そのもののようで、誰かを決定的に傷つけてしまうとしても映画を作ることをやめられない人間だということが彼の不幸でもある。

わずかな場面で強烈なインパクトを残すおじさんの存在感

祖母が亡くなってその弟のおじさんが来る場面も面白かった。映画監督の業や孤独を示唆する役割であり、同時に映画監督なら映像で見せろというセリフはこの映画にまで通じるスピルバーグの信念そのもののようでもある。母親に不倫関係を暴くクローゼット上映の場面はまさに映像によって自分自身の気持ちをぶつける場面になっていて物語内の伏線としても上手い。
少ない出番で強烈な印象を残すおじさんのインパクトはサミーの人生における影響の大きさを追体験するようで面白かった。

主人公の映画が内包する男らしさの欠落

主人公の映画に対する情熱を後押しするのは常に母親であることから本作における映画的感性は母親から受け継いだアイデンティティとして描かれているのだけど、それによって家庭内の男らしさの欠落が浮かび上がるような展開が興味深い。
エリートの父親は主人公の映画作りを否定し、主人公もまた父親の理想とする人生を歩むことができないことから常にサミーの映画というアイデンティティには男らしさの欠落が不可分なものとして存在している。一方で仕事に没頭し順調に出世していく父親の考える良い人生という価値観は必ずしも母親や家族たちを幸せにすることはなく、ロールモデルとしては破綻した存在でもある。
だからこそなのか、劇中サミーの撮る作品は端々で「男らしさの幻想」を誠実に捉え続ける。戦争を批評的に描き、マッチョな同級生は必ずしもその人物の実像を反映していない。主人公の描く男性像は奇しくも「理想化された男らしさ」なんてものは所詮幻想なのだということを暴き出していくようでもあり、それは後のスピルバーグ映画においても頻出する視点でもあるからこそメタ的な見方としても味わい深かった。

スピルバーグの再出発宣言のようなラスト

ついにサミーが映画業界の入り口に立つエピローグのエピソードも本当に素晴らしかった。
スタジオに就職したサミーがいきなりジョン・フォードの話を聞く機会に恵まれるのだけど会話の場面として普通にめちゃめちゃ面白いし、何より先人への敬意と、まだまだそこには遠く及ばないからこれからも映画を撮り続けるぞ!というスピルバーグ自身の宣言のようにも感じられる。今言われたことをやってみました、というラストカットのカメラワークが「映画から学ぶことはまだまだたくさんあります」という若々しさに溢れていてめちゃめちゃかっこいいなと思った。
様々なことがあった幼年期の先に映画監督としての自分の人生を発見した主人公サミーのラストカットの後ろ姿はそのままこの映画を経てまだまだ映画を撮り続けるのだというスピルバーグ自身とも重なるようで、この爽やかな余韻の先にはスピルバーグという素晴らしい映画監督の新たな作品がたくさん待っているのだと思うととても嬉しい気持ちになった。


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