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2024年映画感想No.15 クレオの夏休み(原題『Ama Gloria』) ※ネタバレあり

親密な距離感を映すカメラワーク

ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞。
幼いクレオとナニーのグロリアの関係を映す冒頭からスタンダードサイズの画角やクローズアップな撮影が二人の親密さを強調している。映画のファーストシーンはクレオの近視の検査であり、彼女の目から見える世界の追体験としても近視眼的な撮影手法に必然性が生まれている。
「幼いクレオが何を見るのか」という眼差しを巡る物語であることをファーストシーンで宣言しているように感じられるのだけど、「クレオが読めない文字を横からグロリアが教えてあげる」というやりとりが少しずつズレていく世界の中でできる限り寄り添おうとするこの物語内の二人の関係を象徴しているように感じた。
カメラの距離感がそのままクレオの目から見える世界であるという点では、別れのきっかけになる訃報を受けるグロリアを見つめる場面は草の向こうにグロリアが見え隠れするようなカットになっていて、のちに彼女の見えていなかった人生の側面が表れる予感を撮影だけで示唆している。

演技を越えた子供の説得力

劇映画で小さな子供が映ると「どこまでが演技なのか」という部分にメタな心配や感動をしながら見てしまうのだけど、序盤二人の関係性を見せる描写もクレオがグロリアといると本当に楽しそうなのが下手な演出よりも真に迫った距離感として感じられた。生活を共有すること、感情を共有することという物理的、精神的距離の近さが幼いクレオにとって母親代わりであるグロリアの存在の大きさを示す描写になっている。
ずっと一緒の二人だからこそグロリアがいなくなることの影響がとても大きいはずで、小さい子供が母親を失うような体験をすることに対して「クレオ大丈夫かな」と心配な気持ちで観てしまうし、別れの場面の本当に辛そうな様子に対して子供だからこそ演技ではなく「本当に辛いんじゃないか」とメタな心配を覚えてしまった。

子供という不安定な存在

案の定クレオはグロリアがいなくなったことに順応できない。ずっとクローズアップだったカメラワークも少し離れたところからクレオを映すカットが挟み込まれるようになり、それによってクレオの内面の不安定さや、保護者がいないことのよるべないい印象をグッと強めているように思う。車から飛び出す場面の映し方とか一瞬だけどとても怖い。「まだ一人では危ない小さな子供なんだ」という緊張感を撮影によって観客に共有させるようなワンカットだと思う。
クレオがバカンスの間だけグロリアの実家であるカーボベルデで過ごすことになるのも、「この時間が終わったら二人は別れる」という終わりに向かうモラトリアムの設定としてとても映画的だと感じた。

母親代わりの存在の他者としての側面

またグロリアの近くに来たことで一時的に以前と同じような擬似母娘の時間が戻ってきたかのように見えるのだけど、グロリアには故郷に別の人生がありそこはクレオの居場所ではない。言語の違いや家族の存在、新しくホテルを建てるといった人生の計画など、自分の知らなかった彼女の他者性にクレオは触れていく。
自分にとって代えのきかない存在だったグロリアには別の場所に別の大切な人がいて、自分がグロリアの唯一の特別ではなくなってしまうという不安からグロリアが自分の人生に還っていく状況を幼いクレオは中々受け入れられない。
グロリアの存在によって母親の不在というままならなさや欠落感を実感せずに成長してこれたクレオが、だからこそ結局大切な存在を失うという不条理を体験しないといけないような展開になってしまうのが皮肉だし心苦しい。

親子関係の再生を見つめるクレオの眼差し

そうやって母親を失うことの不安と直面するクレオと対照的に長く母親が不在だったグロリアの子供たちの存在がある。出産を控える青年期の長女と、まだ小学生くらいの長男のどちらも母親がいなかったことでアイデンティティの不安を抱えているような人物で、わだかまりを抱えながら失った時間を埋めようとする親子の様子を通じて自分がグロリアと過ごした時間の意味をクレオが理解していくような繊細な眼差しが心に残る。
臨月の長女に夫らしき存在はなく、母親になることへの不安と孤独を抱えているように映る。だからこそ唯一それが理解できるグロリアが戻ってきたことが彼女にとってとても大きいし、子供との関係に断絶を抱えてしまったグロリアが自分の経験を繰り返させないために彼女に寄り添うことにも大きな意味があるように思う。
一方の長男は母親がいなかったことで自分が承認される居場所を内面化できておらず、だからこそ外の世界に繋がりを求めている。クレオの世話を放棄して出かけていく彼を映すカットが、前半に車を飛び出したクレオと同じように街中の小さい子供を映すかのような危ういロングショットのカメラワークになっていることでよりクレオと鏡合わせの存在であることが感じられる。それがクレオの目線のカメラであることにも物語的な必然があって、撮影演出によるストーリーテリングとしても素晴らしかった。

一人前ではないことを象徴する海を巡る描写

カーボベルデに来たクレオがグロリアに泳ぎを教えてもらう場面が擬似親子的な描写として印象に残る。小さい子が海に入っているだけで結構怖いのだけど、それを大人が支えてあげるという構図がクレオにはグロリアが必要という関係性を象徴的に表しているように思う。
だからこそ後々保護者不在の中で海辺の崖に遊びに行く長男にクレオがついていくという場面にとんでもない緊張感がある。子供が危ない場所で危ない遊びをやっていることのハラハラと、そんな場所にさらに小さいクレオがフラフラ入り込んでいるハラハラとで大人としていてもたってもいられない気持ちにさせられる。中々陸に上がれないというちょっとした描写だけでもドキドキさせられてしまうし、それが長男もまだまだ未熟で危ういということを示唆する描写にもなっていて上手い。

立ち返るべき居場所を内面化できたクレオ

クレオの「一番グロリアにそばにいてもらうべきは自分」という絶対性の揺らぎは、最も無条件で守られるべき存在である赤ちゃんが現れることで決定的になる。泣くのを止めようとしてつい暴力を振るってしまうところには、自分より弱い存在を否定したい気持ちと、それ自体が自分より弱い存在を認める行為になってしまったことのショックの両方が表れていると思う。
怒られて傷ついたクレオは海に飛び込む。自暴自棄になったようでもあり、「グロリアを必要としない自分」になろうとしているようでもある。自分をコントロールできない子供の行動を見守るハラハラと、伏線を活かした象徴的な通過儀礼としての素晴らしさの両方がある重層的な場面設計が素晴らしかった。
そうしてちょっとだけ成長したクレオが、グロリアの大切な存在やその一部である自分を認められるようになったかのような終盤の描写も感動的だった。母親的存在の欠落という痛みをちゃんと知ったことがお互いを理解して歩み寄る繋がりになっているように感じられる。
その先で描かれる別れの場面では映画序盤で泣くクレオを映したのとは対照的に今度はグロリアの涙を映す。それがままならない人生の残酷さであると同時に、血縁以外にもかけがえのない存在は築けるという逆説のようでもあって、最後に振り向くクレオを映すのは彼女が初めて過去を、つまり振り返るべき原体験となる記憶を手に入れることができたかのように感じられてグッときてしまった。

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