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2024年映画感想No.13 ルックバック ※ネタバレあり

「表現すること」の救いと苦しみ

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
原作は読んだ時にショックが大きすぎてしばらく引きずってしまうくらい心に刺さった作品だったのだけど、この映画も映画化作品としてあの原作の素晴らしかったところがしっかり描かれていてとても良かった。
「何かを表現すること」についての救いと苦しみについて描かれた物語だと思うのだけど、この映画でも観ながら何度も過去の自分の経験を思い出す瞬間があって、文字通りルックバックするような映画体験だった。同時に、何も知らずに読み進めていた原作と違って今回は物語の先に待っている出来事をわかって観ているからこそ、全ての瞬間が尊くも、切なくもあった。もしその選択と結果の先に悲劇に待っていたとしても二人は何も悪くないし、だからこそ彼女たちが創作を通じて自分たちの人生を決定していく一つ一つの瞬間を祝福したいと思いながら観ていた。

創作にのめり込んでいく過程のリアルさ

小学生の藤野が救われたり傷ついたりしながら少しずつ創作にのめり込んでいく序盤の描写がまさに自分が体験してきた感覚そのまんまで、観ていて何度も心を揺さぶられた。
色々知っていくことで何も知らなかった頃の全能感を無くしてしまう一方で、作品を作ることでしか得られない経験もある。現実にぶち当たって自分自身を知る苦しみと、何かに夢中になったり人との繋がりができたりといった良い実感の両方が藤野の創作を成熟させていくのがとても良かった。クリエイターが物作りに魅了されていく過程で感じることの切り取り方が見事で、「わたしは天才かもしれん」と思っている初期衝動の季節から「上には上がいるんだ」と挫折を知るまでの段階がものすごくリアルに描かれていると思う。
一生懸命考えたマンガを「5分で描いた」とウソをつく裏にある照れと見栄と不安、作品を褒められることで自分が承認される感覚、京本の登場によって自信が揺らいで自分の表現が凡庸に思えてしまう気持ちなど、誰しもが経験する「スペシャルワン」だと思っていた自分自身が「その他大勢」なのだと知る段階が鮮やかに描かれている。「クラスの中では絵が上手い人」というところから芸術学部に進学した僕が、大学で自分が到底及ばない人たちに囲まれて「俺が遊んでいた時間でこの人たちは絵を描いていたんだ」とバキバキに心を折られたプロセスと全く同じだった。
落ちこんで帰る藤野は過去に自分の絵を褒められた記憶で自己肯定感を取り戻そうとするのだけど、結局否定された記憶が一番強く思い出されてしまうのも「ネガティブな言葉」の影響力を示す描写としてさりげなく鋭い。藤野の絵を「普通」と言った男子の言葉を思い出す描写が藤野目線からより批判的なニュアンスが強い回想になっていて、まさに「否定」の強さを表しているように思う。
「何からやったらいいかわからないがとにかく上手くなりたい!」というガムシャラな熱量が積み重なるスケッチブックや増えていくデッサン本という物量的な努力の形として描かれるところも良かった。絵はそこに費やした時間が可視化される表現物だからこそ努力の結晶としての説得力が目に見えて感じられるし、何より僕は「作品を完成させる力」という藤野の持つ実は一番特別な才能がここに表れているように感じた。

相対的感覚と自分への失望

マンガを描くという内向的趣味への偏見から藤野が一度は漫画を描くことを辞めてしまう気持ちも痛いほど理解できた。今でこそメディアが多様化したことでイラストを描けるという能力が社会的なアイデンティティとして認められやすい時代になったと思うけれど、僕の学生時代はまだ「絵を描く」ということがどういう未来に繋がっているのか想像しづらい時期だった。当時は自分でも自分の将来の道筋を具体的に思い描けなかったし、そうやって答えのない道を進むことに対して自分は逃げているだけなんじゃないかと後ろめたさに近い気持ちが長いこと心の片隅にあった。
藤野も「マンガを描く」という行為こそが自分の社会との接点を失わせてしまうのではという不安を感じていたのだとと思うし、そういう時に目標にしていた京本と自分を比べて心が折れてしまった気持ちもわかる。実際藤野はちゃんと努力が見えるくらい絵が上手くなっているのだけど、「色々犠牲にしてきたのにこんなもんか」と頑張ってきたことが全て無意味に感じられてしまったのだと思う。

それでも「描いてしまう」ということ

マンガを描くことを辞めてしまった藤野が小学校の卒業証書を渡しに引きこもりの京本の家に行く。京本の部屋の前に積まれた半端じゃない量のスケッチブックを見つけることが「天才に見えている人は誰よりも努力している」という事実を目の当たりにするような場面になっているのが良い。
藤野がマンガを描くのを辞めてしまう描写の中で「捨てようと思ったスケッチブックの束の上に白紙の四コマ用紙が乗っている」という場面があるのだけど、京本の部屋の前で藤野が拾うのもスケッチブックの上に落ちている四コマ用紙であり、この物語の中で最も重要な四コママンガを描くきっかけに「京本と藤野」という対になる関係を必然性として響かせるような演出になっているのが丁寧な演出で良かった。
藤野の「あなたのようになりたい」という気持ちが四コマを描かせたようにも見えるし、だからこそそういう相手から自分の作品を認められることで「自分の絵に意味がある」という大切な承認体験が藤野に訪れるのも感動的だった。
「なんでマンガを描くのを辞めたのか」と聞かれた藤野は「賞に応募する作品を準備していたため」と嘘をつくのだけど、大切な人からの尊敬に応え続けたい気持ちから背伸びした自分を演じることで本当にやらないといけなくなる、というのもよくある話だと思う。藤野が「頭の中では完成してる。あとは下書きとペン入れだけ」という、「つまり何もできてません」という漫画家の言い訳の常套句みたいな説明をするのに笑ってしまった。

蜜月と別離〜クリエイターとしての成熟と自立

「マンガこそが他者との繋がり」という救いとして京本と藤野が一緒にマンガを描くようになるのも感動的だった。最初は一人だった「マンガを描く」という行為の先にこういう瞬間があることで、自分のやっていることが信じれるようになるというのも僕自身の経験と重なった。
人生の一番大切な時期を一緒に過ごしている、という描写として二人が一緒にマンガを描いて少しずつ自己実現に近づいていくダイジェスト演出が感動的だった。作品を通じて実感する成長と、それが自分たちの世界を広げてくれることというポジティブなサイクルが描かれていて、それがそのまま彼女たちの青春の輝きに直結している。
本作では単純に二人がステップアップしていることの演出としてペラの紙からスケッチブック、原稿用紙、液晶タブレットという画材の変化が描かれていると思うのだけど、僕がちょうどアナログからデジタルに作画のスタンダードが移行していく過渡期の世代だったこともあって、ここの細かいに変化にも色々なことを思い出しながら観ていた。まずは大手少年誌の漫画賞という目標設定や「仕事」になった瞬間からフルデジタル作画になることなど、「イラスト」ではなく「マンガ」が夢である人間の段階の変化が描かれているところにも僕自身の経験が重なってめちゃめちゃリアルに感じた。
そこから二人が道を違える展開も絵による演出がとても丁寧で、場面の構図だけで別離の予感が積み重なっていく。繋いでいた手が離れる。図書館の場面では光の方へ歩いていく藤野に対して京本は影に留まる。京本が大学進学を相談する場面も立っている木が二人を隔てるようなカメラワークになっている。

藤野にとっての創作を救うもの

中盤に起きる悲劇に関して殊更に盛り上げたりせず、藤野の視点から描かれる作品の温度やテンポ感を尊重した描かれ方になっているところも品が良い印象だった。藤野は目撃していないので「何が起きたのか」という事実は描かれない。
映画版ならではの表現として少年期から藤野目線で「マンガが脳内イメージのように動く」という描写があるのだけど、だからこそ別の世界線で藤野が京本を救う一連の場面がそのまま藤野の元に届く四コマに集約されるような演出になっていると思う。ニュースの再現VTR調のテロップなど藤野の想像で事件の成り行きが再生されているようなバランスがあることで、「自分のせいで京本が死んだ」と一度は自分の創作に絶望した藤野の中にある「それでも創作は誰かを救うと切実に信じたい」という気持ちを、彼女の中の京本がエンパワメントしているかのような場面としても受け取れる描写になっている。その「四コママンガが脳内再生で動く」という映画内の文法と一致させる演出が「あくまで主観的なマルチバース」という解釈の余地をより切実で感動的な必然として機能させているように感じた。
藤野と京本が初めて出会った時の会話が大学生の二人によってあちらの世界線でも繰り返されるのだけど、あくまで京本目線から描かれる藤野が去り際にさらりと言う「最近また描き始めた」という言葉には、藤野の「自分の作品が誰かの意味になると教えてくれたあなたに救われた」という京本という存在の意味が込められているように感じられて胸が締め付けられた。そう思うと、藤野が京本を救う内容の四コマもかつてと同じように藤野がこの場所で”描いてしまった”もののようにも思えるし、その彼女がもう一度創作の原点に立ち返るような流れが、だからこそ彼女にとってはとても切実な行動のように感じられて心を揺さぶられた。

凄惨な現実に対するフィクションからの祈り

部屋に入った藤野が答え合わせのように「京本にとっての自分」を再認識していくのも切ないし、それが「振り返ったら自分のサインが入った半纏が目に入る」というルックバックというタイトルに象徴されるアクションで決定的になるという演出の段取りも、原作を読んでいて次に来る描写がわかっていてもどうしたって感情を揺さぶられてしまう。
一方でルックバックというタイトルの幾つもの解釈の中には「マンガを描く後ろ姿」を通じて藤野の創作の変化を見つめる物語であるという意味も込められていると思うのだけど、だからこそ冒頭と対になる構図で再び彼女がマンガを描き始める後ろ姿を映すラストカットにもドスンとくる感動がある。
人の命を奪う凄惨な暴力に対して誰かを救うという創作の力を信じたいと祈るようなラストに作り手のとても切実な気持ちが込められていると思う。「フィクションは現実を救える」とか「救えると信じている」なんておこがましいことは言えないけど、信じたいからこそ何かを作り続けるのだと思う。原作が京アニ事件へのフィクションからの解答的な作品だったことを思うと、『ルックバック』という作品をアニメにしてみせること自体にも大きな意味を感じた。
創作が現実に及ぼす影響なんてほとんどがやるせなさや無力感に終わるものかもしれないけれど、ラストの藤野の背中を通じて彼女と同じようにそれでも今日も何かを生み出すことを諦めない全ての人を見つめる切実で優しい眼差しがあるように思う。

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