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2023年映画感想No.87:MY (K)NIGHT マイ・ナイト ※ネタバレあり

「夢を売ること」についてのメタなテーマ

新宿ピカデリーにて鑑賞。中川龍太郎監督最新作はEXILE HIROさんプロデュース、THE RAMPAGE from EXILE TRIBEの川村壱馬、RIKU、吉野北人主演というある種のアイドル映画でもある。見た目がかっこいい人じゃないと演じられない役ということ以上に「ファンタジーを売る存在」とはなんなのか、というアーティストという現実の彼らの役割を再定義、再肯定するような物語としても受け取れるところが素晴らしいと思った。
キメッキメのイケメンが「今夜もナイト(騎士)になりますかー」とイケメンに自覚的な言葉を吐きながら事務所を出る冒頭の場面で「こんな住む世界の違う人たちに感情移入できるのだろうか?」と正直不安を隠せなかったのだけど、お客として彼らを雇う女性たちも、雇われるイケメンたちもみんな辛い現実からの逃げ場所が必要だからこそ一夜限りの関係性を必要としているし、そうやって始まる関係がちゃんと各々の抱えている問題と向き合うきっかけに繋がっていくのが優しい物語だった。

どうしようもない欠落を抱える人々

幸せになろうとしたその場所で身動きが取れなくなっている登場人物というのは極めて中川龍太郎監督的な設定だと思うのだけど、本作では3人の女性たちそれぞれに人生の段階における閉塞感や停滞感が描かれている。そういう女性たちがデートセラピストというレンタル彼氏的な主人公たちとそれぞれの一夜を共にすることで図らずも自分の問題を他者と共有し、カウンセリング的に自己の問題と向き合えるようになり、前進するきっかけを見つけていく。
同時に彼女たちを癒す側でもある主人公たちにもそれぞれ内側にアイデンティティの欠落があり、この一夜によって彼らもまたその喪失を少し取り戻すような物語になっているところが構成として素晴らしい。『MY (K)NIGHT』というタイトルがきちんと登場人物それぞれの物語に重なるダブルミーニングになっていて気が利いている。

いわゆる王子様というだけではない本作のナイト(騎士)

3人それぞれのデートの始まりを描くレストランの場面の見せ方に工夫があって良かった。それぞれがどんな女性とデートするのかの説明でありながら、各カップルの設定を対比的に見せていくことで「ただ単に相手に奉仕して喜ばせるだけの存在ではない」という主人公たち側の説明にもなっている。作中で一番本来の意味での王子様的な役割を引き受ける吉野北人演じる刻から見せることで、少しずつ「そうとは限らない」と意外な方向に印象を変化させていくような見せ方が面白かった。
同時に直前の楽屋では一番しっかりしてなさそうだった刻が一番求められる役割を忠実に演じているというギャップも場面を面白くしていると思う。

刻と沙都子〜抑圧を否定する自由さ

刻とデートすることになる安達祐実演じる沙都子は夫に不倫されている自身の状況に折り合いがつけられず苦しんでいる。自分を不幸にしている抑圧に対してどうしたら良いのかわからなくなっていて、刻と会うことに何かの解決を期待している。そういう彼女の優しさゆえの自己犠牲的な性格、迷いや孤独を理解し、尊重してあげるような刻の接し方がとてもナチュラルな優しさで素晴らしかった。
タワマンに住んでいる沙都子はおそらく経済的には不自由のない生活をしているのだけど、一方で家庭という居場所に心理的な自由がない。そんな彼女が「ここではないどこか」としての刻の人生に触れ、さらに彼の家族とも関わることで料理や空手といった自分の魅力や可能性を取り戻していくのが良かった。
一般的には必ずしも良い環境とは表現されないような刻の風俗街での暮らしは、人と人との繋がりによって助け合って困難な日常をサバイブしている。織田理沙演じる刻の恋人も一見デリカシーがない粗野な人物なのだけど、彼女の飾らないストレートさこそが沙都子が無理して受け入れようとしている抑圧をバッサバッサと否定し、沙都子本来の魅力を肯定していく。軽やかにステレオタイプを裏切るところが展開の細やかな意外性になっていると思うし、そのバランスが誠実で丁寧なところが中川龍太郎監督らしい。
あとはシンプルに安達祐実がタバコ吸ったり、マシマシのラーメン食べたり、鉄拳やったり、立ちション観察したりするのが絵的に面白かった

イチヤとミユポ〜「カメラを向けること」についての問題提起と、存在証明としての写真

RIKU演じるイチヤとデートをする夏子演じるミユポのパートも誠実な人間描写が印象の裏切りという物語のツイストに繋がっていて良かった。
世界を消費するかのように写真を撮るインスタグラマーのミユポと写真家を志していたイチヤは一見全く相容れないのだけど、自分を撮ることでなんとか自身を肯定しようとしているミユポと写真が撮れないことで自分を見失っているイチヤは自己証明をめぐる裏表の欠落を抱えている。その鏡合わせの関係性が撮影者と被写体として向かい合うことでお互いの救いになるというのが流れとしてとても綺麗だった。
インスタグラマー的な人たちの数字稼ぎ的な振る舞いに対してはかなり批判的に描いていて序盤のミユポの行動は見え方の問題ではなくはっきりと悪いものだと思うのだけど、「じゃあなぜそういうことをするのか」というところにある「誰かに存在を認められたい」という切実なもがきや苦しみには共感できるし、そういうエゴの危うさを増長する装置として現代におけるカメラの危険性を語っているのも良かった。
写真に良いとか悪いとかは無いのかもしれないけれど、「カメラを向けること」には繊細であるべきだという問題提起は真っ当だと思う。だから写真家の存在意義があるし、それはそのまま「映画を撮ること」という作り手自身の矜持でもあるように感じた。

刹那とアカリ〜家族という十字架からの解放

川村壱馬演じる刹那は穂志もえか演じるアカリに頼まれて余命わずかな彼女の母親に会うための婚約者を演じることになる。とにかく要求が細かくて余裕がないアカリに付き合ってあげる中で少しずつ彼女と母親の関係性や現在の状況が浮かび上がってくるような見せ方が丁寧だった。
母親に会うまでの描写でアカリがいかに母の期待に応えようとしていて、その不条理なハードルに苦しんでいるかを見ているからこそ、母親に突き放される場面の残酷さが際立つような展開になっている。それまでは軽い振る舞いで緊張するアカリを和ませようとしていた刹那がアカリの母親の悪意ある厳しさに対して見せる怒りの表情でことの深刻さを理解したことが伝わってくるのが良かった。
ただし刹那は母との関係に断絶があるからこそ、支配的な抑圧に苦しみながらも母親との関係をなんとかしようとしているアカリの気持ちは否定しない。アカリと彼女の母親が自分たち親子のようにならないために間に入って傷つけ合いを緩衝してあげるし、そのためにする身の上話がそのまま彼自身が避け続けてきた自身の欠落を改めて見つめ直すことにもなる。自分の家庭の話をする刹那が十字架を背負うように映されることで彼もまた背負っているものを吐き出しているようにも見えるのが印象的だった。

反復と差異による丁寧な映画的な構成

撮影的にはウォン・カーウァイを思わせるようなどこか無国籍な絵作りが印象に残った。コマ送りのような演出によってその瞬間だけは世界が登場人物たちだけのものになったかのようなカットがあり、彼らの作っている特別な時間を追体験するようだった。
また、カップル三組とも二人だけで隣り合って話をすることでお互いを理解し、最後には改めて歩き出す女性を男性たちが見送るという描写が共通している。すぐに打ち解ける刻と沙都子、初めて隣同士で座るからこそ心の接近が感じられるイチヤとミユポ、何度も隣で座っているからこそそれまでとの違いで感動させる刹那とアカリというようにそれぞれにその象徴的な場面の作り方が違っていて、丁寧な構成が心に残る。

偶像性からの解放と「夢を売る仕事」の再肯定

ラスト、日の光の下で戯れる主人公たちを映すのは、彼らもまた夢の夜という偶像性から解放されて等身大の人生に戻っていくことを祝福しているように感じられた。
彼らのありのままの青春を見つめる眼差しがとても温かい一方で、「仕事を通じて救ってるのか、救われてるのか」というやりとりがあることで現実世界でも夢を提供する側であるTHE RAMPAGEの役者さんご本人たちの存在意義についてまとめて再定義、再肯定しているような場面にもなっているように思う。
魅力を引き出し、メタなアイドル論としてまとめ上げる見事なバランスの作品だった。中川龍太郎監督、さすがの仕事でした。


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