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野薔薇が作品でないのは何故か

個人における奇想天外。 ”自分の限界を超えたところの表現”としてよく言われるところ、思いもよらぬところを知るには、只思わないことだ。目指しては行けない。思惑を祓い、自然として、しかし筆運び色運びさまざま、まず紙を取り筆を取らねば描けぬ。思わぬといえども思っている。そのうえ思わなすぎるアバンギャルドも良くない、とも思っている。 禅か気取りか思い違いか、やくざかまたはアカデミックか。総じて、どうでも宜しい。畢竟何も記すべきでない。実際面と向かう頃には、思想も何もあったものではな

    • 観葉植物

      腐葉土にはトビムシというのが湧いて、あるいはコバエが繁栄する。用土について凝り出したので、僕の植物たちにも適当な配合の土をやってみたら、早々、こんな問題がわかりやすく飛び出してきた。そうして表面に無機質素材を敷くのがいいと見たので赤玉土を被せたら的面で、早々解決してしまった。 保水性のないこの表土は乾くのが一瞬で、それであちこちにこの鉢があるものだから、前にも増して移ろいを間近に見るようだ。日差しさえ1分と留まらない中で、僕の肌の血色の悪いのと、唇の赤色をなす血流も絶えず流

      • 一気に冷え込んで何だか呆気なく秋である。夜道を半袖で平気だったのが既に重ね着しなければ肌寒い事態になった。ある明朝カラスが山の方でわらわらと騒ぎ立てた。晴れ空が天まで透き通った。雑草の原っぱが皆白身を帯びた。すすきのような枯れ草が繁った。鈴虫が白昼に鳴いた。赤とんぼが行き交った。曼珠沙華がもう枯れた。 寒い季節の思い出が寒い身体に蘇ってきて文字通り心機一転の心持ちがする。季節は巡るということを僕は当たり前に喜ぶ。今頃は終りの季節つぶやく言葉はさようなら。 黙って真理を実行

        • 端くれながらの絵描きである僕でさえ、描くために使う目と日常の視覚に使う目とが異なる事を承知している。どう違うかといえば、前者は「観察」という言葉のあるように"観る"であり、後者は目に足がついて勝手にほっつき歩く形である。"見る"だけで即座に描くのだとすれば、或いは僕は自らの脳を診ているのだろう。 スマホの写真の軽薄さについてよく考える。集合写真は良いとして、綺麗だといってすっと撮影した夕日の軽薄さである。美味そうといって撮影した食事の軽薄さである。また、写真になってから良く見

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          12本

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          人相

          人相というものがある。人物像の第一で、存在上人間であるからには、我々人間にとって人面の意味は多大である。嫌だと思えば嫌であり、朗らかと思えば朗らかなのである。DNAのことなのだからこれに抗う術はない。一点あるとすれば理性あるいはまたDNAの記述による”慣れ”のみである。自画像を描くにあたって、画面上には数多の人の人相が、打って変わって現れる。 神は細部に宿るという意味は人間の意匠の細かな取り繕いではなくむしろ描き表さんとする元々の景色への誉である。あるいは前者の俗の事は、そ

          軽井沢

          台風を無視して軽井沢に来た。気温23度という予報は本当だった。なにしろ台風直撃のお盆だったから高速道路が空いていて、出発からいよいよ快適で、時折ザッと来る雨も関東の猛暑からすればよほど恵みに感じた。遠出の旅は久々で僕は岩からなる高い山や一面びっしり繁る苔などにいちいち驚いた。武蔵野の雑木林、これとは全く別世界の、外国のように感じた。安直に別荘でも構えたいと思った。来年のお盆休みにでもぜひ、せめて一週間くらい滞在しようかと思う。今回は翌日にも予定の詰まった旅だったから、街を行く

          軽井沢

          "ナラ枯れ"と言うらしい。どうやら敵は空梅雨ではなく、キクイムシという害虫のようである。

          "ナラ枯れ"と言うらしい。どうやら敵は空梅雨ではなく、キクイムシという害虫のようである。

          夏の枯木

          夏だというのに山が点々と赤く、季節錯誤の紅葉かと思えばそれは枯葉であった。山へ赴きその一つへ寄って見るに、立派な樹木のその葉が全て枯れている。幹や枝は一向に健在であるが、その葉が天辺から根元までカラカラになっている。そしてこのような枯木が漏れなく其処らに点在しており、このような景色はかつて見た覚えがないので珍しかった。振るわなかった今年の梅雨のせいだろうか。地面の腐葉土も乾き切っていた。水を湛え青々とした夏の山の風景を懐かしく思った。

          夏の枯木

          文章読本

          谷崎潤一郎の『文章読本』を久々に読むと、まったく中身を忘れていた分とても面白かった。一章四節では日本の古典文学と英米文学とを引用し、日本語がいかに語彙が少なく外言語的であるか、英語がいかに形容詞を連立し説明的であるかを説くが、その格好な例として、英米文学を和訳するには日本語として間延びしがちであるし、日本文学を英訳するにあたっては行数が格段に増えてしまうことを挙げていた。 これは優劣の話でなく、各文化の様相を言語及び文学作品から検討するものである。日本には雄弁をもって讃えら

          文章読本

          ホームセンター

          休日、自ら進んで外出することが少ないので、お買い物や観光だって人から誘われでもしなければ家に籠るばかりの生活である。先日、急用にてホームセンターへ出向いたが、その品揃えの多さに驚いた。引きこもりの身分だから、日頃の生活は質素を極め、食料生活必需品はともかく、小道具やちょっとした便利グッズといったものは、家にあるもので何もかも賄っていた。そんな僕が品物の宝庫たるホームセンターへ入ってしまったものだから、高揚に目が眩み、要るもの要らぬ物見境なく買ってしまった。 テープのり、鉛筆

          ホームセンター

          苦手な散髪

          僕は幼い頃から今に至るまで、自らの髪型というものに興味がない。ワックスでかっちりセットなんて技術もないし、そもそもしようという発想がない。パーマや縮毛、色染めしたこともない。「無頓着」という言葉が相応しいだろう。そのくせ僕の髪は剛毛の気質で、その上ある程度の長さになると左巻きに曲がるという特性を持っているので、僕の髪の毛は日頃とんでもない質量でもって頭の上に繁栄している。石油のようなしつこさである。だから僕は、外出の折には大体帽子を被ってしまって、全く髪を隠蔽してしまう。僕は

          苦手な散髪

          死を想え

          メメントモリの警句を思い出す。日頃何かと暇があればスマホいじるのに時間と頭を費やしてしまうからなかなかぼうっとものを考える時間がない。不安やその他の考え事も大方現実的なことばかりで、いくらか哲学的な思惟をしたと言ってもそれはお堅い談義のようなもので、もう少し本心の、やんわりとして直感的な、ぼうっとした物思いに耽られるような機会が僕には少ない。 本日久々にぼうっとできたのは最近また本をよく読むようになったからかもしれない。久しぶりに論文でない自由な長文を読んだのである。やは

          死を想え