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野薔薇が作品でないのは何故か


20240501


個人における奇想天外。
”自分の限界を超えたところの表現”としてよく言われるところ、思いもよらぬところを知るには、只思わないことだ。目指しては行けない。思惑を祓い、自然として、しかし筆運び色運びさまざま、まず紙を取り筆を取らねば描けぬ。思わぬといえども思っている。そのうえ思わなすぎるアバンギャルドも良くない、とも思っている。

禅か気取りか思い違いか、やくざかまたはアカデミックか。総じて、どうでも宜しい。畢竟何も記すべきでない。実際面と向かう頃には、思想も何もあったものではない。せかせかと塗ってかいて止まって、せかせかと塗ってかいている。あれこれは後の祭りである。

只あれこれも無くては成らない。野薔薇が作品でないのは何故か。人には不変の掟があって、脚注無くして完成は無い。しかし同じくその分別も欠かせない。

一息にこぼした泡水の澱みに三千世界の虹を見る。歪んだ雲の奥の翳りに動物園と停泊船。ティーカップの底残滓のグリフォン。目と鼻の先に見たアスファルトの航空写真。僕の蒼白な顔面にはレモンイエローなど無かった。


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