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友達と恋人の違いー「分人」の集合体としての人ー

今期から映画学概論の授業を受けているのだけれど、初回授業が面白かった。

人は、他者を、第三者とその相手の対話を通して"リアルに認知する"ことができる。でも、多くの人は対峙することで相手をリアルに認知することができると思っている。

というのを、どこぞの有名な映画監督さんが言っていたというお話。(監督さんの名前を忘れました。すみません。)

ほう、なるほどー、と思った。
”リアルに感じる”というのは言葉のチョイスがどうなのかなぁと思ったけど、
つまり彼は人の正しい認知には客観的、第三者的視点が不可欠であるということを言いたかったのではないかなと私なりには解釈している。(全然ちがうかったらごめんなさい、なんとか監督さん。)

確かに人と対面している時は、話を聞きながら、相手の表情を見てそこにどんな心があり、それに対して自分がどのように反応するのか考える。目で見て、口からで発して、体で感じながら話を聞くことになる。だから情報を得て、整理して落とし込むことが全て同時進行で行われる。なのでそこに難しさを感じるというのは確かによくわかる。

先日、インターン先の後輩が夏の短期インターンで
「議論中に目を見て相手の話を聞かないこと」
をフィードバックされた、と軽く拗ねていた。その子の言い分では、
「人の話を聞いてその論点を整理して思考をするときに、人の顔を見ると別の情報が入ってきて集中できないんすよ」
ということらしい。なんとなく、その後輩の言いたいことは分かるような気がした。そういえば私も去年就活中何度もインターンで「議論しだすと、人が変わるよね」と言われていた。普段私はどちらかというと人当たりが良い方で、笑顔で目を見て人と接するらしいのだが、議論になると、そういうコミュニケーション的な配慮が減るのだという。そして、やはり目が会う回数が減るらしい。

きっとそれは、私がまだ余裕がないからなのだろう。客観的、論理的な思考を意識する際に、人の感情という情報を同時に処理するとスピードや効率が下がってしまうのだ。だから、相手と対面することを避け、一歩引いた視点から思考をする。いやー、ロジックだけの嫌な奴になりたくないなぁ。例えば、誰かと誰かが議論をしているのを側で見ていて、二人の議論の抜けている論点を指摘するのは簡単だけれど、自分が議論に参加してると、その抜けている論点になかなか気づけないことがある人は多いんじゃないだろうか。

こう考えると、”なんとか監督さん”の言っていることは、私にとってはかなり腑に落ちる意見なのだ。この話は、恋人と友達の違いの一つの特徴をも説明できるんじゃないかと思う。

友達というのは、その人にとって自分がたった一人の友達なのではなくて、自分はその友達にとって、数いる友達の一人なんだなということを、私たちは自覚している。つまりそれは私と友達の関係には第三者がいるということを意識できているということだ。そして、私自身がその第三者になる機会も多い。友達と話していたら、友達の友達がやって来て、しばらく会話においていかれながら、行き場なく何となーく、ニコニコしてしまっている、まさにそんな時、私は急に第三者としてその友達と、友達の友達を眺めている。その関係性は何角形にでもなりうることを私たちは理解している。

対して、私たちは恋人には、その人にとっての恋人は基本的には自分1人しかいないと思っている。(ポリアモリーの方など、そのような価値観とは異なる形で恋愛をしておられる方もあるので、これは現在の一夫一妻制の価値観の中では、ということだが。)関係性はあなたと私。対面する構図がそこには生じている。もちろん、実際にはお互いの間に共通の友達がいたり、自分が第三者的立場に置かれることもあるだろう。だがその回数が少なく、意識の上で薄い、のかもしれない。

よく、「彼/彼女が何を考えているのか分からない。私はちゃんと向き合っているのに」などという恋愛の悩みが多いのは、この対面する構図が恋愛において生じやすいからかもしれない。

最近、平野啓一郎さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』という書籍を読んだ。

そこでは

人は「分人」の集合によって構成されており、ある人の前で見せる自分と、他の人の前で見せる自分がまるで異なる自分のように感じるのは、他者との関係性において人がお互いに影響を受けあい、微妙に変化するからである。

というようなことが書かれていた。

恋愛関係において、相手のことがうまく見えなくなるような不安を感じるのは、平野さんの提唱する「分人」という概念を利用するなら、その恋人のひとつの「分人」しか、私たちは見ることができていないからなのかもしれない。どれだけ私たちが恋人のことを理解しようとその人と言葉どおり”向き合って”も、彼の全体像を掴めないような気がして不安なのは、目を見て向き合うことが足りないのではなくて、他の人との関係性の中での彼の「分人」を知ること、が足りていないからなのかもしれない。

そして平野さんと”何とか監督さん”の言葉を合わせるなら

人は、他者のより多くの「分人」を理解することによって、他者を”リアルに”認知しうる、のかもしれない。

私個人としては、大切な人と長い間二人だけで見つめ合い続けることなんて、とてもじゃないけど恥ずかしくてできそうにないので、これからも、隙あれば盗み見したり、たまにはこっちを向いてほしいとちょっかいをかけながら、色んな彼を知っていきたいと思う次第である。

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