アプリコット

唇と杏と宇宙人と。

幼い時僕は、庭の杏の木が好きだった。
それははじめ、小さな苗木だった。
それは次第に大きくなって、毎年美味しくもない、渋くてすっぱい実をつけた。
僕はその木と一緒に大きくなった。

その木は、僕の双子の兄弟のようなものだった。
だからちゃんと水をやったし、たまに枝を切ってやった。
ちゃんと世話もした。
その木は、少しずつ大きくなりながら、いつまでも家の庭にじっと動かず居座っていた。

高校三年生の夏から、僕は天井と向かい合って1日のほとんどを過ごすようになった。
昔のように、朝日を浴びてベットから起き、顔を洗うことも、風を感じて自転車に乗ることも、見てもいないテレビの話を、さぞ面白かったかのようなふりをして友達と笑い合うことも。
時々、夜中にこっそりカップラーメンを食べることも、なくなった。
まるで木のように、ベットの上に寝たまんま、朝が来て、夜が来て、また何回か朝が来た。たまにお母さんが持ってきたご飯を食べ、自分の体の不快さに耐えかねるとお風呂に入った。
視界に映るのは、青い空と白い天井。

はじめ、みんなが僕を心配した。

「どうして起きれないの?」
「学校で嫌なことがあった?」
「気に入らないことがあったらいつでも言いなさい」
「皆んな寂しがってるよ」

でもそれらの声は、なんだかうまく僕の耳に届かない気がした。
そして僕の声は、くちびるを離れた瞬間、音を失ってしまった。
だから僕は黙っていた。
それは多分みんなを困らせ、怖がらせ、時に怒らせたんだと思う。

そのうち皆、なにも言わなくなった。

窓の外からは毎日規則正しい音が聞こえた。
隣の家の目覚まし時計の音。散歩に喜ぶ犬の鳴き声。下校途中の小学生の足音。お母さんが晩御飯を作る音。くだらないテレビ番組の笑い声。
僕がベットの上で寝ている間、世界はなにも変わらずに回っていた。
僕は世界と一緒に大きくなるのだと思っていたけど、世界は僕のことなんてとっくに忘れてしまっているようだった。

◆◆◆

口紅はしない。嫌いだから。
それは、私に否応無く『女』を突きつける。
子供の頃、母の口紅が大嫌いだった。
口紅をした母の口からする香りは、母が『女』であることを私に教え込んだ。

自分が『女』であること自体が嫌なのではない。
『女』を口元に塗りつけて人前に出ることが、私に一抹の不安を覚えさせる。別に口紅を塗ったぐらいで、いやらしい目で見られるような魅力のある女ではないことは分かっている。
有難いことに好意を寄せてくれる男性には困らないが、さほど目を引くタイプの女ではない。
それでも私は唇には、その赤を引くことができない。

◆◆◆

「私の大学の友達さ、口紅に2万円もつかうために百貨店に行くんだって。
私、どうしてもそんな女にはなれそうにないな。百貨店で口紅を物色する人生なんて、どうしても私の未来に訪れそうもないもん。
ね、そう思わない?」

彼女はそういって、自分の唇に指を当てた。

「ねぇ唇って、体の何パーセントだと思う?私たちには、真っ赤な血が通ってるから色なんて元々付いてるのにね。まぁ、私だって口紅ぐらい塗るけど、だからって2万円は」

そういう彼女は、いつも同じ匂いの香水を髪につけていた。
それがなんの匂いなのか、僕には分からない。
けれどもそれは、爽やかな空の色を連想させる匂いだった。

「こういったからには、私がそんな女になったら止めてよね。唇なんてきっと体の5パーセントだよって」

彼女はそういっていたずらに笑った。
薄い唇を横にひき、満足そうに笑う彼女の唇は、綺麗だと思った。

僕は今百貨店にいる。

「ねぇ、ボーナス入ったんだけど、私どの色が似合うと思う?」

口紅の色は、こんなにも沢山あるものなのか。
百貨店のディスプレイの前で、彼女は色のついた唇を舐めながら言う。
大学を卒業してから出版社に就職した彼女は、白いブラウスに空色のタイトスカートを上品に着こなしていた。

「ねぇ、聞いてる?なんか言いたいことあるなら言いなさいよ」

やっぱり彼女には敵わない。
僕はディスプレイの中を見つめるふりをして

「これなんてどうかな」

と言う。

「ねぇ、ふざけてるの?そんな薄い色、私の唇の色と変わらないじゃない。そんな色に私の大切な2万円を使えないわよ」

「そうかぁ」

なんて言いながら、僕はどうやって彼女の2万円を守ろうかと考えた。
でも今の彼女に「唇は体の5パーセント」なんて言葉は何の意味も持たないように思えた。

「ねぇ、僕は君の体の5パーセントがとても好きだよ」

「はぁ?何いってんの。早く選んでってば!私これから仕事なんだから」

呆れたように僕に背を向けて、赤とピンクが規則正しく並ぶディスプレイを真剣に覗く彼女の髪は、爽やかな空の匂いがした。

「いつまでニヤニヤしてるの?気持ち悪いよ」

彼女は僕のせいでご機嫌ななめなようだ。

「いや、君は変わらないなと思って」

「当たり前でしょ。私は私なんだから」

「うん、そうだね。ねぇ、この後パフェでも食べに行かない?そこの口紅みたいな真っ赤なイチゴの乗ったやつ」

彼女はそれを聞いていたずらに笑った。
薄い杏色の唇を横にひき、満足そうに笑う彼女の唇は本当に綺麗だ、と僕は思った。

◆◆◆

窓から青い空が見える。
朝起きて今日やることの多さを考えると、いつもは着ない可愛らしいワンピースがきてみたい、そんな気分だった。
でも着てみたら、全然ピンとこなかった。
なんだか自分に無理やり着せた感じがして、結局いつものシンプルなワンピースに袖を通す。

女の子ってわがままだなって思った。
それで、こんな時だけ私は主語が女の子なんだなって思った。
『私』は同時に『女の子である私』でもある。
鏡の前に座ってそこに映る自分の顔を覗き込む。
最近ファンデーションを塗って、申し訳程度に眉毛を書いて、おまけのようにチークをぬるだけになってしまった。 
マスカラもアイシャドウも、やめてみたら特に何も変わらなかった。
それらはいつの日か当たり前にあったから、私の世界に存在していただけで、なくなっても何も変わらなかった。
生きていると、それだけで多くのものに出会って私の世界は大きく広く、そして雑多になる。
それらの中には自分から選んだものもあれば、何となく交わったものもあって、私は時に本当に自分に必要なものを確かめる。
自分の形を絞って残るものを見つめてみる、そういうことも大事だなって。体が重いというのは、どうにも気分が良くないから。
大人になるってひとつはそういうことかなぁ、なんて、思って靴下を履く。

◆◆◆

小さい頃から忘れられないアニメの宇宙人のセリフがある。

「人間は、隕石が衝突したり自然災害が起こるたびに一からやり直している、かわいそうな生物だ」

私は自分たちのことをそんな風に捉えたことがなかった。
でも、それは事実だとも思った。
台風が多い今年は、そのセリフをよく思い出す。

昔、先輩に言われた言葉がある。

「あなたは日々のこととか、小さなことをしっかり考えるかと思ったら、突然思考が宇宙まで飛んでって、はるか上空からそんなことはどうでもいいかのようなことを言う。そういうクレイジーさが好きよ。
地球に調査に来た宇宙人みたい」

宇宙人も悪くないよなぁと思いながら、最寄り駅までの道を歩く。
台風の影響で根こそぎ倒れた木が、まだ道の両端にある。
多分人間はまたやり直す。
宇宙人から見たらきっと人間だって変わった『ウチュウジン』なんだろう。

◆◆◆


彼女の唇の動きが音になって僕の耳に届くまで、少し時間がかかった。

「私ね、多分宇宙人だと思うの」

僕らは順調だと思ってた。
正式にお付き合いを初めて1年、週に1回はデートに行くし、まだ幸いケンカをしたことはない。僕は彼女が好きだし、彼女は僕が好きだと思う。
少なくとも、僕としてはそう思っていた。
でも彼女は言った。自分がいるべき場所に帰りたいんだと。

「ねぇ、どうして自分が宇宙人だと思うの」

「そう思ったから。この星の出来事はなんだか私にはとても奇妙に見えるの。でもみんな、当たり前のように世界に馴染んでいくじゃない?生まれたばかりの赤ん坊は無知だって言うけれど、本当はみんな地球に生まれてくることを知ってたのよ。
私はね、生まれてこの世界を初めて見た時、何が何だか分からなかったんだわ。そして私はそれからずっと、なんだかこんなはずではないという気がしているの」

「つまりは理由を言葉にすることは君にも難しいってことだね。
もしかして、なんだけど。
それはこう、君なりの優しさなのかな。ほら、僕と別れたいという、さ。そういうのって、面と向かって言うのは結構酷だったりするだろ?」

「違うの。私あなたと一緒にいるのが好きよ。それでもいつも、私はここではない自分のことを考えずにはいられないってだけ」

◆◆◆

夏が過ぎて冬になった。それを何度か繰り返した。
それでも僕はまだ、天井を見つめていた。
このところ、僕は人間というものが一体なんなのか、よく分からなくなってきた。
人間とは何をもって人間であり得るんだろうか。
庭の杏の木のように動かない僕は、それでもまだ生きていて、それはやっぱり僕は人間だ、ということなのだろうか。
それとも人間らしさを失った僕は、人間らしくない何か、なんだろうか。
少なくとも人間らしさを失った僕は、何として生きていけるのだろうか。
この冬、杏の実はならなかった。
葉はどんどん枯れていって、枝はくたびれたように下を向くようになった。まるで庭から僕を見て、その姿に悲しんでいるようだった。
天井を見つめるだけの僕が人間だった頃のことを、いつまでも覚えているのは庭の杏の木だけだ。

君は、優しいね。

でも、例えそれが渋くて酸っぱくても、その実をつけなくなったら、君はもはや杏の木ですらないんだよ。
自分が世界から杏の木だってことを忘れられることを、君は怖くないのかい?

僕は、怖いよ。


◆◆◆

夜中に目が覚めた。
窓の外には真っ暗が、広がっていた。
その中に一筋の光が走る。
僕はベッドから起き上がり、窓から身を乗り出す。
街灯の光の下に小さな人影がひとつ。
ベットから冷え切った床にゆっくり足の先をつけ、その冷たさに肩をすくめながら、僕はベットを抜け出し、階段を降りる。
玄関の扉を開けたのは3年ぶりだ。
街灯の下の人影がこちらを振り向く。

「あら、あなたどこから来たの?」

「君の知らないところから」

空の一部が勢いよく僕の胸に吸い込まれる。
彼女のワンピースが揺れる。
多分まだ僕は生きていける。

◆◆◆

大学を卒業し、働き始めて3年。
あれ以来、彼女には一度も会っていない。
僕はなんとか仕事をすることで自分の居場所を確保し、今でも人間をやっている。
庭の杏の木は、彼女が去ってからその5%に当たる実をつけなくなった。

君はもう、花が咲くだけの木だね。

庭の木は何も答えない。
そういえば僕は、杏の木について何も知らない。

【杏】
アンズ(杏子/杏、学名 Prunus armeniaca)は、バラ科サクラ属の落葉小高木である。アプリコットと英名で呼ばれることもある。別名、カラモモ(唐桃)。中国北部で形成された東洋系の品種群には、ウメとの交雑の痕跡がある。原産地は諸説あるものの、中国の山東省、河北省の山岳地帯から中国東北地方の南部とする説が有力とされる。

花言葉:乙女のはにかみ

彼女の唇は、果たして今でも僕の知っている色なんだろうか。
彼女の唇が今でも守られているのならいいな、と思う。

僕はきっと、君が好きだよ。
庭の杏の木が、満足そうにはにかむ。


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