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伝える、と言葉にするの狭間に立って

「好き」「愛している」

そういう言葉が私は少し苦手かもしれない。

それは勿論そういう言葉を言い慣れていないし、言われ慣れていないからでもあると思う。でもそれだけではない歯がゆさが、そこにはある気がしてしまう。

先日、『断片的なものの社会学』という本を読んだのだけれど、そこには戦争体験者の方の語りに対して、こんなことが書いてあった。

 おそらく彼は、毎日のように日本各地のそういった集会で同じ話をして、同じ場面で同じように涙を流しているのだろう。 そのとき、彼はなにかを「語っている」のだろうか。むしろ、彼は語りに突き動かされ、語りそのものになって、語りが自らを語っているのではないだろうか。

出展『断片的なものの社会学』|岸政彦|朝日出版社|2015/5/30

これと似たような感覚が、就活の時にあった。面接の数が多くなると、どうしても同じようなことを喋らざるを得ない。そうすると、伝えたい自分の気持ちよりも先に言葉が口を出る、そんな感覚があった。だから、私は面接の時に毎回違う言葉を選ぶことを意識しようとしていたし、たまに急に口をつぐんでしまいたくもなった。そこには、容易に使い慣れた、分かりやすい言葉を口にすることによって、私の伝えたい想いや意思が伝わらないのではないか、そんな怖さがあった。だから私は面接練習を全くしなかった。したくなかったのだ。

言葉は記号である。言葉がなければ、私たちは想いやものを伝えるのにとても沢山の時間や労力を使う。人はより効率的に、より多くの情報を、より正確に伝えるために言葉を使う。

だけど、”言葉”と”言葉が表すもの”は、本当は同じではない。私は普段から当たり前に言葉を使いすぎていて、たまにそのことを記憶の端に追いやってしまう。そうして言葉に付け入られる。言葉が自らを語る時、私たちが本当に伝えたい、想いや気持ち、熱や匂いは言葉の隙間からするすると、漏れていく。人はその言葉の隙間から漏れていくものに敏感だと思う。それらはまるで目に見えるように、こぼれ落ちて地面に落ち、そして音もなく消える。

そして私はたまに呆然とする。誰かの言葉から、何も伝わってこない、または言葉と裏腹の何かが迫ってくる。そして自分の言葉が伝わらずにこぼれていく。

伝えることの難しさ、そんな当たり前のことを、急に目の前に突きつけられて、少し怯む。

言葉は伝達手段である。だが私たちは言葉を繋げば、何かを相手に伝えられるとは限らない。そのことに私はもっともっと自覚的でなくてはいけない、と思う。

そんな時、たまたま読んだ記事から暫く目が離せなかった。

当時のぼくにとって、ことばは使い捨てるものだった。今ならわかる、ことばを使い捨てることは、こころを使い捨てることだ。

他者へ向けて自分の意思を伝えるために用いる文法や規則が定められているものが「言葉」で、声や踊りやまなざし、ふるまいを含めたものが「ことば」だ。

耳の聞こえない斎藤さんの言葉。(正確には筆談による)私は今まで、言葉の伝達可能性を信じこみ、言葉を容易に使い捨てていなかっただろうか。言葉にして、そのことに満足していなかっただろうか。

私は多分、「好き」「愛している」という言葉たちが嫌いなわけではないと思う。私だって誰かにそう言ってもらえたらやっぱり嬉しいし、思わず誰かにそう言いたくなることだってある。でも私が本当にしたいことは、そのような言葉を”言う”ことではなく、私の想いや意思を”伝える”ことなのだ。そこを間違えてしまいたくない。

こう思うと”伝えること”は急に難しいことのような気がしてくる。きっと多くの時間や労力がかかるし、時に伝わらないことに絶望したりすることもあるだろう。それでも自分の想いや意思を、誰かに笑いかけたり、抱きしめたり、目を合わせたり、一生懸命いろんな方法を試しながら、時に大失敗もしたりして、”自分なりの”形にしていくことを諦めないでいたい。

そしてそのような試行錯誤をする私の姿によって”伝わる”想いもきっとある、と私は信じている。


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