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ヤン・コマサ『聖なる犯罪者』神父ダニエルかく語りき

ある少年院の作業場で、リンチを背に監督員を見張る少年ダニエル。薄ら暗い作業場から外を覗く彼の顔に光が当たり、その吸い込まれそうなほど青白い虹彩に目線まで吸い込まれてしまう。そう、これはダニエルを演じるバルトシュ・ビィエレニアの、特に目の映画なのだ。ヤクをキメて大きく見開かれた目、使命感を帯びた目、哀しみを共有する目。決して多くは語られない過去を、その目一つで語ってしまう。ヤン・コマサ単独長編三本目である本作品は、誰しもが抱えた罪に対して温かく寄り添う青年を描いている。実際の出来事を題材にしているが、ダニエルの過去などのキャラ設定は創作した部分も多いようだ。

仮釈放の身となって田舎の製材所に派遣されたダニエルは、ひょんなことから新任の若い司祭と間違われ、それを利用して司祭になってしまう。"何が司祭を司祭たらしめるか?"という根本的な疑問に真っ向から突っ込んでいったこの設定は、一辺倒なキリスト教批判の文脈を軽々と超えてしまう。少年院で熱心なキリスト教徒になったダニエルは、その経歴故に神学校への入学が叶わず、本質的なキリスト教と今の宗教との解離ついて思うところがあり、それを全て吐き出したかのような形になっているのだ。この村の人々はよくある"近所付き合いと週一の生存確認にミサを使っている"わけだが、ダニエルは教会だけに留まらない親しみやすい宗教者として"隣人愛"を広めていく。それも、高尚な概念としてではなく実践する細やかな現実として。

そこに登場するのが、彼の人生をプレイバックするかのような事件の存在だ。村では最近6人の若者が自動車事故で亡くなったばかりで、衝突した相手を飲酒運転の殺人者だと決めつけて未亡人に向けた嫌がらせを行っていたのだ。コミュニティから唐突に追い出された未亡人は、そのまま社会から神学校から締め出されたダニエルの境遇に重なる。映画は後半にかけて、何を犠牲にしてでも分断された村人たちを再びつなぎ直すダニエルの絶望的な努力が展開される。ダニエルは許しや贖いの場所としてのみ教会があることをもどかしく思い、怒りや哀しみを吐き出す場所を提供して住民たちの鬱屈した感情を一手に背負い受ける。事なかれ主義の人々に対しては、"許すこと、忘れること、最初から何もなかったように振る舞うことは全く違う"として連帯を呼びかける。そして、この分断はカチンスキ大統領を飛行機事故で失ったキリスト教大国ポーランドが、それ以降10年に渡って"神の啓示"派と"ただの事故"派に分断されてしまっている故国の現状すら圧縮している。

ダニエルは何の目的で身分を偽り続けたのだろうか。彼は地元の市長や刑事にバレそうになっても逃げることなく司祭としての仕事を全うしようと奔走する。見方を変えると、見知らぬ土地で別人になりすますことは、過去から逃れられない人生をリセットし、完璧な理想を体現することが出来るということにもなる。考えてみると、プリミティブな意味での"隣人愛"の実践や、セラピストまがいの越権行為、若者との酒を交えたぶっちゃけトークは確かに宗教者としても人間としても理想的すぎる。そんな理想的な人間を演じて、分断された村や迫害された未亡人を救うことで、同時に自分自身を救っていたのかもしれない。

★以下、多少のネタバレを含む

しかし結局、過去はダニエルを掴んで離さなかった。甘い詩情や夢物語は厳しい現実を前に弾け飛び、荘厳過ぎる退場によっておとぎ話のような物語も一気に現実に引き戻される。冒頭の手持ちカメラによる荒々しいリンチが反復され、逃れられなかった過去を再現するかのような体験が繰り広げられる。彼は元に戻ってしまったのだろうか?そのクロスカットで描かれるのは同じ時間の村の状況で、偽善と哀しみと怒りによって止まった時間はダニエルが残した爪痕によって再び動き始める。二つの時間は重なり合って連続しており、ダニエルの人間性が連続していたことすら示唆している。理想的で完璧な別人を演じていたのかもしれないが、ダニエルは常にダニエルだったのだ。

"神の国は時空の彼方ではなく、今ここにあるのだ"というダニエルの叫びが耳に残り続けている。奇跡はそう簡単には起こらなかったが。

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・作品データ

原題:Boze Cialo / Corpus Christi
上映時間:115分
監督:Jan Komasa
公開:2019年10月11日(ポーランド)

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