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【文フリ】Orangestar論を寄稿しました&売り子します【東京】


※ふつうにサクっと告知だけをするはずが、これまでの自分の書いてきたOrangestar関連noteの復習やら自分(のオタクとしての信条)語りなどを無意識のうちに書き連ねてしまったため、10,000字を越える駄長文となってしまいました。ご注意ください。


来週土曜日(2023/11/11)に開催される文学フリマ東京37にて頒布される、highlandさん主催の評論同人誌『ボーカロイド文化の現在地』にOrangestar論を寄稿しました。


寄稿させていただくことになった経緯ですが、highlandさんから(人づてで)お誘いをいただきました。それまで、わたしはhighlandさんのことを(Twitterやはてなブログで)一方的に認識しており、オタクとして尊敬/憧れていました。

わたしは(この合同誌の参加者でゆいいつ)Twitterをやっていないので、そちらでの交流などもなく、どうやらこのnoteで6年前から書いてきたOrangestarに関する記事をhighlandさんが読んでくださったのをきっかけに、寄稿のお誘いを頂けたようです。人生なにがあるか分かりませんね。(ちなみに、highlandさんが私のnoteを知ったきっかけは、『傷物語』感想noteを読んだあにもにさん経由だそうです。傷物語、ますます最高だな…)


評論のトリでワロタwwww


今回わたしは「ボカロは歌を忘れることができるか──Orangestarの言葉と音について──」という17,000字くらいの文章を書きました。

やけにセンセーショナルなタイトルですが、ガヤトリ・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』のオマージュではないし、副題もフーコー『言葉と物』とは特に関係ありません。

さいしょは「ボカロは歌詞を忘れることができるか」だったのですが、迷った末に「歌」にしました。(正直まだ迷ってます)


内容は、これまでのわたしのOrangestar論の(いったんの)総まとめです。
同人誌のタイトルになぞらえるなら「かくしか vs Orangestar の現在地」といったところでしょうか。(なぜ戦ってるんだ……)
もうほとんど日常的にボカロを聴いていない(プロセカもやっていない)自分にとって「ボーカロイド文化の現在地」について何も言えるはずがないので、せめて全力で、自分のOrangestar論の現在地を書かせていだだきました。

つまり、過去のわたしのOrangestar語りnoteを読み込んでくれている人にとっては、「あ~いつもしてる話ねw」と新鮮味が薄いかもしれません。
(そんな人がひとりでもいたら嬉しいことこの上ないですが)


実際にこれまでのnoteとの関連を軽く(追記:軽くではなくなってしまいました)さらってみます。つまり、実質、今回寄稿した文章のネタバレをします。

つまり、曲を聴いている中で視聴者側の思考に揺さぶりをかけてくるような構造になっているということだ。
もちろんこれが意図的になされているとは考えにくいが、彼の書く詞には「『〜〜』ではない」と、詞を部分的に括弧で囲ってそれを覆すようなパターンが時々見られる。

『快晴』に見るOrangestarの軌跡(2017)

わたしが初めて書いたOrangestar関連note「『快晴』に見るOrangestarの軌跡」(2017)で言及している「詞を部分的に括弧で囲ってそれを覆すようなパターン」について、「ボカロは歌を忘れることができるか」(2023)では再考して明確な用語を与えました。

また、こちらの「「て」を言ったら加速してしまうアスノヨゾラ哨戒班」(2018)は文中でモロに引用しました。5年前にこれを書いてたおかげで、「アスノヨゾラ哨戒班」の歌詞に含まれる「て」の数をまた1から数え直さなくて済みました。5年前の自分、ぐっじょぶ!

この「て」note、自分が書いたOrangestar関連noteのなかではいちばん反応が薄くあんまり読まれていないっぽいのですが(それはネタっぽいタイトルのせいもあるでしょうけれど)、個人的にはめちゃくちゃ重要なことをいろいろ書いている記事だと最近ますます感じています。

前からこの曲には"言語化しにくい魅力"があると思っていました。
「歌詞の世界観が良い」という次元のことではありません。もっと単純に「聞いていて耳に馴染む」とか、「音に対しての言葉の乗っかり具合がハンパじゃない」というものです。
こうした非常に曖昧な魅力が、""というひらがな一文字でグッと明瞭になった気がしました。

「て」と言ったら加速してしまうアスノヨゾラ哨戒班(2018)

このあたりとか、最近読み終わった木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』(2023)で熱く語られている主張と強く共鳴するものがあってテンション爆上がりでした。

 本書は歌詞についての本で、そう言いたければ歌詞批評の本とも言っても良いし、作詞の本だと言っても良い。ただし他の歌詞批評や作詞の本で書いてある内容とはたぶんことごとく違うことをここで白状しなければならない。
 ここで私が「夜に駆ける」が自殺の歌である、ということをなぜ明言しないままでいるかという理由は、本書を最後まで読めば理解してくれるだろうと思う。本書は、歌詞の文学的な内容についてはほとんど触れないばかりか、時として文学的に読み解くことができる歌詞の意味を否定する。それは、歌詞とはまずもって歌われるものであり、聴かれるものだからだ。

木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』p.25

「ほんっとそれな!! 歌詞の文学的な意味を紐解くだけで †考察† した気になるんじゃねぇ!!! 歌詞は歌われてこそ、聴いてこそだろうが!!!!」と、図書館でひとり興奮していました。

この本↑じたいは、今回のOrangestar論を書き上げて提出したあとに知って読みましたが、実質同じことをやっているというか、最重要参考文献として挙げられていないのがおかしいくらい、自分の音楽批評とスタイルが近い評論でした。細馬宏通『うたのしくみ』(2014, 2021)とともに、「じぶんがこれまで自然にやっていた音楽語り/音楽評論のやり方は間違ってなかったんだ、これでいいんだ」とすごく背中を押された本です。この2冊は今後は絶対に参考文献に挙げます。

ことばの細部がどんな声になり、それが歌のしくみをどう形作っていくかを知るには、テキストになった歌詞だけではなく、歌そのものをたずねてみないとわからない。これから「やさしさに包まれたなら」という歌を考えるのですが、ここでもやはり歌詞カードではなく、歌っているユーミンの声をたずねてみようと思います。

細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』p.23

↑これとほぼ同じようなことを、私も今回のOrangestar論で書いています。

さらには『うたのしくみ』第6章のaiko「くちびる」論におけるサビの歌詞分析は、読んだときに「えっ!?!?これって「快晴」noteで書いたこととおんなじじゃん!! YUI「CHE.R.RY」以外にも有名邦楽でこんなに例示にふさわしい曲があったなんて……」と驚愕しました。今回の論考では言及できませんでしたが、いずれ必ず引用させていただきます。

また『歌詞のサウンドテクスチャー』の後半で扱われていた宇多田ヒカル「One Last Kiss」の歌詞評論に対しても「えっ、これって自分も前にやったやつじゃん!」とものすごい既視感を覚えました。(もちろん、音声学などの知見をもとに、私よりもはるかに綿密かつ鮮やかな分析が展開されていましたが。)

Orangestar論や音楽評論とは離れますが、いま改めて読むと、↑のnoteの後半で書いたPV分析は、これまで私が書いたなかでも最も緻密なアニメ(映像)批評だなぁ……と自惚れしてしまいました。"ダンス批評" として語っているのも他のひとは真似しないであろう切り口で良いなぁ……(うっとり♥)


歌詞を文字媒体として(木石さんはこれを〈歌詞カード〉と名付けています)読んで、その意味内容について考えるのではなく、「歌」=聴覚情報かつ時間芸術としての歌詞の響きやリズムに着目したOrangestar論といえば、こちらもまた、今回の内容に深くかかわっています。

ここまで、「が」の持つ魅力について「詞としての違和感」と「歌としての納得感」という2段階に分けて語ってきました。
おそらく作詞をしている人にとって
・歌としてのリズムや響きを優先するか
・詞としての意味や整合性を優先するか
という二者択一はことあるごとにぶつかる問題でしょう。

アスノヨゾラ哨戒班の歌詞で一番好きな一文字(2019)

ここでの「詞と歌」の二項対立は、今回の論考の副題「言葉と音」に対応しています。(より正確には、「言葉/音」という二項対立に対して「歌」という第三項がどのように関わっている/関われないのか、という三角関係についての議論ですが、このあたりは今回の論考でもまったく消化不良なので今後の課題です。ジラール『欲望の現象学』を読まなければ……)

このへんの歌詞のリズムの考察、『歌詞のサウンドテクスチャー』を読んだ後だと、さすがにこうしてひらがな(文字テキスト)の状態で比べるのではなく、五線譜や /音素/ などで図示したほうが明らかに分かり易いよなぁ~w と反省してしまいます。これはこれで字面が面白いしかわいいんですけど。

しかし、作者がどう考えて作ったのかというのは私たちの知ったことではないし、筆者にとっては「その曲が自分にとってどんな意味をもつか」こそがただひとつ重要なことなのです。

アスノヨゾラ哨戒班の歌詞で一番好きな一文字(2019)

この辺の自論も、『歌詞のサウンドテクスチャー』の音声学における、調音音声学と聴覚音声学の違い、にも軽くアナロジーとしてなぞらえることが出来そうで興味深いです。話し手/作者がどのように発声/創作するか、という解剖学的な構造/作家論的な意図の次元ではなくて、聴き手であるわれわれがその音声/音楽をどのように聴き取るか、のほうに重点がある。

これは音楽に限らず、私にとっては普段のアニメや映画や漫画やエロゲや小説の感想/解釈noteにも一貫しているスタンスです。私が本質的に興味があるのは、作品の向こう側にいる "作者" ではなく、作品を今ここで鑑賞している "自分" なのです。だから、音楽評論にしろアニメ批評にしろエロゲ感想にしろ、すべては「(なんかしらんけど)私はこう感じた」「この部分が好き/嫌いだった」という自分の印象から始まります。「それってあなたの感想ですよね?」──はい、そうです。すべては自分の直感的で感情的な感想/印象から始めなければいけないのです。大事なのは、そこで終わらせずに、そこから一生かけて、その「自分の感想」の理由を後付けして深めていくことだと思っています。

じぶんがそれを鑑賞したときの印象を大事にする。その印象を "後付け" で分析・解釈していくのが、今までずっと私がやってきたことです。(というか、それしかできません。)

仕方ないので説明しましょう。と言っても説明するのはむずかしく、
「ここの『が』、なんか知らんけどめっちゃ好きだ」という感情がまずあり、その感情が自分の中で発生している仕組みを後付けで考察しているだけです。(中略)
しかし、後付けだからといって好きな理由を分析する意味がないわけではありません。言葉によって感情を解きほぐすことで、自分でも見えていなかった感情の一面が明らかになり、より豊かな「すき」へと昇華させることができるのです。そうして新しく生まれ変わった「すき」も現象でしかありませんが、もとの現象よりも一歩豊かになっているという点において、価値は大いにあります。

アスノヨゾラ哨戒班の歌詞で一番好きな一文字(2019)

いまの自分なら、「好き」という肯定的(で周りの他者にも受け入れられやすい)な感情/印象だけでなく、「嫌い」という否定的な感情/印象もまた大事に分析して豊かにしていくことは大切だと言うでしょう。これまで、自分の「嫌い」「これはどうしても許せない」という強いネガティブな感情に駆られて書きなぐった、数千字、数万字にもわたる感想noteがいくつもあるからです。

「嫌い」の理由語りnoteは他にも大量にありますがキリがないので……

もちろん、好き/嫌い という単純な二分法だけでなく、その中間にたゆたうあいまいな感情や、そもそも好き嫌いに収まらない別の軸・位相の印象だってすべてが大切です。すべての印象を後付けで「なんで自分はこう感じるのだろう?」と掘り下げていくことが私は好きです。ようするに、私は本質的に自分にしか興味が無いのです。〈自分〉とは何なのかを知るために、さまざまな本や作品を摂取して、それを代入したときの自分(という関数)の反応(値)を集めているのです。

『人形の国のバレリーナ』がわたしに合わなかったからといって、オススメをしてくれたこと自体をどうか後悔しないでほしいです。わたしは苦手な作品のどこが苦手なのかを自分なりに分析して文章にする行為そのものが大好きなので、今回も総じてとても楽しかったです。時間やお金を無駄にしたとはまったく思っていません。自分ひとりでは(あるいは我々ふたりでは)手を伸ばすことのなかった作品に触れられたことに、本当に感謝しています。

『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』(2014)観た」より

ちなみに、自分にとって、「一生モノの作品」に出会うことが日々色んな作品を鑑賞することの目的ではありません。「大切な作品」に出会えたらアタリで、「自分には特に何でもない作品」だったらハズレ、ではありません。そうではなくて、むしろ、一つ一つの作品に出会って、それが自分にとってどういう類の作品になるのか、ということを見極めていくプロセス自体がいちばんの楽しみです。言い換えれば、ひとつ作品を新たに鑑賞するごとに、自分とその作品との、一生つづく「付き合い」が始まります。これは「一生モノの作品」に限らず、すべての作品とのことです。その「縁」を増やして育んでいくことがこの上ない喜びであり、自分が死ぬまでの暇を潰すとしたらこれくらいしかやる価値のあることはこの世にないと思っています。

祝・映画感想ポッドキャスト50回! 『グリーンブック』『HELLO WORLD』etc.」より


文フリの寄稿の告知をするはずが、いつのまにか自分の恥ずい信条語りをしていた…… ごめんなさい。全国大会を狙えるほど自分語りが得意なんです。(だから逆に、暴走しては自己嫌悪するのが嫌だからついったを辞めたんですね~)


閑・話・休・題 (魔法の4文字)

こちらの「Henceforth」を論じたnoteの内容もまた、今回の文章と深く関わっています。

そろそろ「あぁ」から先へ進もう。と言ってもこの曲、「あぁ」がやけに多いのである。じっさい本曲はAメロからラスサビまで基本的に「あぁ」から始まる2小節の繰り返しによって構成されている。「繰り返し」は音楽の根幹を為す要素のひとつであって、特に本曲の属するEDM系統の音楽ではその重要性が前景化する。そんなことは当たり前であるが、ここに更に、Orangestarにとっての「繰り返し」という主題を見出すことができる。

このへんの「繰り返し」や「EDM」についてとか、それに続く

Orangestarは歌詞も高く評価されており、じっさい天才以外の何物でもないと私も思うが、しかしながらその音楽の原点/根幹にあるのは歌ではない。(中略) 彼にとっての音楽とは「詞よりもまず曲」なのである。(中略)Orangestarのキャリアにおいて、インスト曲には単なる「非-歌モノ」以上の位置づけが必須であると考える。

インスト論(「言葉よりもまず音」!)などを、『ボカロは歌を忘れることができるか』ではもう少し深めて、全体の論旨の流れのなかに位置づけました。今回は「Henceforth」こそ深くは取り上げませんでしたが、逆にいえば、それは今回の文章と3年前に書いたこの「Henceforth」論は、同じことを別の角度から述べている、相補的な関係にあるといえるでしょう。つまり、副読文献として重要なので、今回のが気になる人はこちらもぜひ読んでみてください。

にしてもこの「Henceforth」論note、今読むと、単に今回の文章との関連性だけでなく、その先──それこそ『うたのしくみ』や『歌詞のサウンドテクスチャー』で披露されていたような鮮やかな、"歌詞から「うた」への評論" にちょっとは肉薄できているのではないか、という感じのことを頑張っていて、やるやん3年前の自分……となっています。(これを執筆していたのは緊急事態宣言の真っただ中。投稿された「Henceforth」を、新調した無線イヤホンで聞きつつ、(なぜか)近所をランニングしながら書く内容を練っていた思い出があります。今は昔!)

今回はこれまでの自分のOrangestar論の整理、という意味合いが強く、広く浅くいろんな曲に触れていったため、この「Henceforth」noteのように、ひとつの曲に焦点を当てて掘り下げていくかたちにはできませんでした。でも、作家批評よりもひとつの曲批評こそいちばんやりたいことなんだよな…… いつかOrangestarの全曲についてそれをやるのが私の〈願い〉です。



えーそして、いちばん直近で書いたOrangestar論がこちら↑です。告知しませんでしたが、実はこのn-buna/Orangestar論は大阪大学感傷マゾ研究会の同人誌『青春ヘラ vol.2 音楽感傷』にこっそり寄稿していました。(それを改稿したのが↑のnote) なので、自分がいちばん直近で同人誌に寄稿した文章でもあります。

その前に寄稿したときの告知文はこちら↑。もう私はプロセカについて何も言えませんが、『ボーカロイド文化の現在地』には新鮮なプロセカ論が複数載っているようなので楽しみです!!

この「n-buna/Orangestar論」は以下の通り、音楽批評というよりも作家論、歌詞(カード)の文学的な意味内容を扱った論考です。

また、ふたりの作家性を論じるといっても、作品の作曲・音楽理論的な側面に注目することはせず、主に歌詞やインタビューで語った内容に基づいて論を進める。これはひとえにわたしの音楽知識の欠如と怠慢のためであり、音に言及することのないアーティスト論は片手落ちどころか両手落ちである、という誹りは十分に受ける覚悟である。

「n-bunaとOrangestarは何が違うのか」(2022)

したがって、『うたのしくみ』『歌詞のサウンドテクスチャー』を読んでいる今の自分としては、こうした評論はあんまり好ましく受け入れられません。インタビューの引用とかどうでもいいから曲を、音を聴け!!!(もちろん、そういう作家の伝記的研究・資料集めはそれはそれで大事なのでしょうけれど。)

ただ、このnoteで「もはや私もn-bunaとOrangestarを並べ立てる段階からは卒業した」的なことを謳っておきながら、今回の寄稿文でもn-bunaとの比較をしてしまいたい気持ちはめちゃくちゃありました。だって対比として便利なんだもん!!……でも最終的にはなんとかn-buna/ヨルシカの名を一度も出さずにOrangestar論を書き上げることができました……セ~~フ!(いや、今後のOrangestar論ではまた普通に言及/比較するとは思います)

この比較noteの最後のほう、〈ひとり〉かつ〈わからない〉存在としての「Orangestar」概念……という雰囲気は、(直接の言及はせずとも)今回の寄稿の最後のほうとも関連していると思います。おたのしみに!



やっとこれまでの自分のOrangestar論noteを「軽くさらう」のが終わりました。有言実行できてえらい!

以上で見てきたように、今回書いた「ボカロは歌を忘れることができるか──Orangestarの言葉と音について──」は、これまでの私のOrangestar論の寄せ集め/総まとめです。ただし、主催のhighlandさんより、いちばん初めに、「Orangestarの純粋な作家論だけに終始するのではなく、少しでもボカロ音楽シーン一般とOrangestarを繋ぐような記述を入れ込んでほしい」(意訳)というようなお言葉を頂いたので、そこはかなり悩みました。なぜなら、何度も言うように、今の私はボカロ音楽一般にはまったく興味がなく、Orangestarのことしか熱を持って書けないからです。

今思うと、このhighlandさんの助言はそんなに難しいことではなく、「Orangestarとは2013年4月に「ノラボク」でデビューしたボカロPで、2014年7月-8月の「イヤホンと蝉時雨」「アスノヨゾラ哨戒班」でヒットしてシーンの前線に躍り出て……」的な、Orangestarのことをあんまりよく知らない人のための基本情報を最初のほうで軽く入れさえすればいい、という意味だったのだろうと思っています。

それを、私が勝手に「これまで考えてきたOrangestar論をボカロ音楽論へと拡張しなければこの本には載せられない!」みたく拡大解釈・誤解をして、ひとりで無理難題だと思って頭を抱えていただけでしょう。(highlandさんはマジで優しく粘り強く、自分のような〆切を普通に破る問題児に付き合ってくださいました!頭が上がりません。)

ともかく、「Orangestar論に終始せず、〈ボカロ音楽〉として何かデカいことを言わなければならない」と勘違いをした結果、「ボカロは歌を忘れることができるか」とかいう物議を醸しそうなタイトルを掲げることになってしまいました…… ボカロファン/ボカロリスナーの皆様、どうか怒らないでくだし……(いや、ちゃんと読んだうえで批判してもらえるなら本望ではあります)

そのため、単に既存の自分のOrangestar論のまとめ・整理に留まらず、それをボカロ音楽の文脈と絡めて考えていくという、少しは新しい内容も含まれています。

今年の夏はOrangestarに捧げました。仕事の行き返りで毎日聴いては気付いたこと、考えたことをスマホにメモし……の日々でした。良くも悪くも、自分にしか書けない文章だとは思っています。Orangestarについてこんなにしつこく向き合って評論している人間は自分以外には10人くらいしかいないんじゃないか、という自負の意味もあり。そして、こんなにも表層的で雑な文学作品の引用をして、こんなにも無理やり論をひとつの筋にまとめ上げようとしているのが丸分かりで、こんなにも批評としては洗練されていない中途半端な文体と文章表現で……というネガティブな(?)意味でも「自分にしか書けない」と思っています。

Orangestar好きの多くには肯定的に受け止めてもらえるであろうけれども(〆切が8/31でしたが、それを破ることによって8/30に発売された3rdアルバム『And So Henceforth,』も触れることができました)、一般のボカロ好きにどう読まれるのかは分からないし、なんなら人文系インテリの方々に読まれてしまった日には、しょうもなさすぎると一蹴されたり憤慨されてもおかしくありません。そこはもう、本当に雑だと自覚しているので、少しでも勉強を重ねてまともなものにしていくしかありません。

本稿は、ある海外文学に関する議論から始まっているのですが(エピグラフではなく、マジで唐突にエッセイのように始まる)、これは別に最初っからかっ飛ばして読者を震え上がらせようとしたわけではありません。それ以外に書き始める方法が思いつかなかったためです。そもそも当初はそれを冒頭に持ってくるつもりは微塵もなく、論の中盤あたりにはめ込もうと考えていました。しかし、けっきょく、私にはあとから推敲して構成を編集する技量はなく、頭から順番に書いていく(書けたものから書き上がっていく)ことしかできませんでした……。でも念押ししておきたいのは、まじでマウントやカッコつけのために引用したのではなくて、Orangestarとかとは完全に無関係に、ふつうに海外文学を読んでいたときに「あれっ!?もしかしてこれってOrangestar論およびボカロ論に使えるんじゃね?」と結びついたということです。highlandさんから声をかけられる数か月前のことでした。

私がもっともボカロ音楽を熱心に聴いていた(="ボカロリスナー"だった)2016~17年には、Twitterのボカロリスナー界隈で活発に交流していました。(今回の名義「かくしか」もその時のアカウント名です。自分のボカロ評論を誰にいちばん読んでほしいかといったら、やっぱりあのとき「かくしか」と交流してくれていたかけがえのないボカロリスナーの友人たちなので、彼らに向けて書いている気持ちは常にあります。)

そのアカウントを突如、何も言わずに消したのは、前述の通りSNS上での自意識を飼いならすことの困難とか、そもそも無言失踪癖(『ウェイクフィールド』)があるとか様々な理由がありますが、別の大きな理由として「今のように毎日ボカロを聴きまくる生活では読みたい文学を読む時間がとれない!ボカロより読書を優先したい!」という当時大学生の若々しく希望に満ち溢れた前向きな想いがありました。(まぁ、当時の自分よりもボカロを聴きながら今の自分よりも文学を読んでいる人なんてごまんといることがのちに分かったわけですが、しかし自分と他人のスペックを比べても仕方ありません。自分がどうしたいか、という話なのですから。)

こんな今更な自分語りをして何がしたいのかというと、あのときボカロより文学を優先して去った「ボカロ文化」に対して、6年が経った今、こうして具体的な文学作品を入口としたボカロ評論を書くことになった、というのが、無駄にエモいというか、あぁ、あのときボカロを捨ててまでも文学を選んで読んできてよかったなぁ…… めぐり巡って「ボカロ」に少しは貢献できたかなぁ……などと自己陶酔的に思うのです。(きしょいですね。こんなにもきしょくてしょうもないのが私です。)

だから今回、私は「ボカロ」評論で「文学」フリマに出るのが、とっても楽しみなのです。

highlandさん及び校正・版組・デザインをして下さった方々、本当にありがとうございました……多大なご迷惑をおかけしました……。


で、寄稿するだけでなく、当日、売り子としても手伝わせていただけることになりました! highlandさんのブースで売り子します!(当日、会場まで無事に辿り着ければ……(文フリ東京初めてなので流通センターも行ったことないです))
なので、誰か再版される「ビジュアルノベルの星霜圏」とか、「ビジュアル美少女」とか低志会報vol.2とか、私の分も買っておいてください!!あとでお金は払いますから!!! (『青春ヘラ』と『萌え研』の新刊は昨日の待ちかね祭で購入して既に気になる記事は読みました。武久真士さんが『青春ヘラvol.8』に寄稿された論考「セカイは日常の中に──「夜のセカイ系」と音に浸る僕たち」が面白すぎて、昨夜本人に直接メールで長文の感想を送り付けてしまいました……この論考ではまさに木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』が批判的に引用されていてひっくり返りました。
(自分の論考への感想メールも随時広く募集しております))


ということで、来週の文フリ&Orangestar論をどうかよろしくお願いしま~す!!



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