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映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(2019)感想

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23/6/18(日)
原作小説未読

児玉雨子さん芥川賞候補おめでとうございます!!!


TVアニメは5年前の放送当時に観ていた以来、特に見返してないがまぁいけるやろの精神で劇場版をみた。

90分ずっと退屈だった。まじでしょ~もない話。早く終わってくれないかな~とずっと思いながら観ていた。
アニメ放送当時はふつうに面白いと思って観ていたんだけど、いま観返したらそっちのほうも楽しめないのかな。

乱立する数多の「ヒロイン」を救いたい(愛されたい)、あるいはその鏡像として、自分が複数のヒロインに想われて救われたい、というヘテロ男性の醜い欲望を満たすためだけに緻密に設計されたプロット。ナルシシズムの極地。それを〈思春期症候群〉という設定に押し込めて、「青春」の2文字で隠蔽というか許してもらおうとしてるところが本当にうざくて嫌い。こんなもの(に感情移入して「泣ける」こと)が "青春" なら、じぶんはとうに青春期を卒業しているのだろうし、脱していてほんとうに良かったと思う。大人になることって悪いことじゃないんだね。かつてエロゲ(泣きゲー)が担っていたものが、現代ではこういうラノベ/アニメで果たされているんだな……と納得した。もう病身ヒロインはいいよ。(おい放課後インソムニア、お前のことだよ)

自分がいま生きていること、自分の心臓が動いていることの加害性が明らかになって、自分の命(および自分の恋人との未来)と、別のヒロインの命を天秤にかける最も低級なトロッコ。ただ自分の鼓動が続いているだけで、それは別のヒロインの未来を(救った結果として)奪っていることを意味する、というとんでもないナルシシズム=陰謀論。ヒロインか世界か、という(大衆に誤解された)セカイ系の問題系もクソだけど、ヒロインAかヒロインBか、という天秤も、そしてヒロインか自分か、という天秤も同じように/それ以上にナルシスティックで醜悪だ。そして、本作はそうした薄っぺらい問題系の薄っぺらさを自ら立証するように、時間遡行というSF要素によってすべてが結局のところ丸く収まって、誰も死なずに、誰も不幸にならずに終わる。なにか色々な大切なものを賭けて葛藤しているようにみえて何も賭けていない。終始茶番。

このような映画前半の段階で「うぜぇ~~~~」とイラつきながら/興味を失いながら観ていたが、ほぼ中盤で、翔子さんを助けようとした咲太を助けて麻衣さんが轢かれた瞬間、「しょうもなさ」のレベルがさらに一段上がり、脱力した。このあとの展開がもう確定してしまった。はいはい。あとはそれに数十分お行儀よく付き合って「号泣する」だけ。泣けるかこんなもん。
加えて、終盤で(自分で自分を助けて)翔子へのドナー提供をせずに年を越して、あとは何をするんだと思ったら、集中治療室での翔子と会って、「翔子の命が助かる僅かな可能性」を得る引き換えに「これまでの咲太の出会ってきた数多のヒロインとの歴史」をいったんリセットする、という究極の茶番をやり始めて逆に拍手してやろうかと思った。ようするにこれは、作品が自覚的に、われわれ視聴者(=これまでの咲太の歴史を「アニメ」として観測してきている者たち)を共犯関係にしようとしてきている、ということだ。誰が共犯になんかなるか。というか、こうして徹底的に糾弾して酷評しなければ自動的に共犯にされてしまう構造がほんとうに馬鹿らしい。

こんなものに付き合うくらいなら、バニー麻衣さんのエロ絵でシコってるほうが五億倍マシだと思うよ、ほんと。

この映画が好きな人はアニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』とかも好きだと思います。(言うまでもなくわたしは大っ嫌いです)



不可思議のカルテも名曲だけど、久しぶりに「君のせい」聴きたかったな……

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